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講演記録 葉榮鐘の歴史への意志————戒厳令下で『台湾民族運動史』を書くこと

*この文章は、『台湾協会報』2018年12月15日号に掲載されたブログ子の講演記録である(ここでは紙幅の関係で省略された言葉を一部おぎなっている)。講演は、去る10月27日(土)、東京は虎ノ門の台湾文化センターで、台湾協会理事河原功氏の司会で行われた。講演の内容は、下記の2-⑴「初代学歴エリート層の夢と挫折」の部分を除いて、次のように日中英文で発表している。なお、2−⑴の部分については講演後10月28日の拙ブログで紹介している。
   若林正丈2011 「葉榮鐘的「述史」之志」、『台湾史研究』17-4、台北:中央研究院台湾史研究所、81-112

 若林正丈 2012 「葉榮鐘における『述史』の志」、愛知大学現代中国学会編『中国21』東方書店、151-178

 Wakabayashi, Masahiro 2010 “A Will toHistory: Yeh Jung-chung' s Writing Activities in his Later Years, “ KeynoteSpeech, The First World Congress of Taiwan Studies,April 26-28, 2012 Academia Sinica, Taipei, Taiwan, https://www.facebook.com/notes/%E8%8B%A5%E6%9E%97-%E6%AD%A3%E4%B8%88/a-will-to-history-yeh-jung-chung-s-writing-activities-in-his-later-years-by-masa/420117854679281/



1.はじめに -抗日台湾知識人の「戦後の歳月」への思い 
  皆さま、こんにちは。ただ今ご紹介いただきました若林です。先ほど司会の河原さんからご紹介がありましたが、今日は、皆さんがほとんどご存じないであろうと思われる、葉榮鐘という人物について語ってみたいと思います。
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  葉榮鐘は、我々が、台湾の戦前の政治史とか文学史とかを最初に研究しようとすると、まずは「林献堂の秘書」としてその名が出て参ります。戦前、台湾人の代表的な政治運動として、台湾議会設置請願運動というのがありました。植民地台湾の政治は総督専制でしたから、台湾総督府の予算だとか、台湾で発布する法律の効力を有する総督の命令とか、そういうものを審議する議会を作って欲しいということを東京の帝国議会に請願して実現を目指す、という運動でした。請願権というのは明治憲法でも認められていましたから、一種の憲法に則った民権運動でもあったといえますが、林献堂という人は、台湾中部は霧峰というところの大地主で富豪ですが、この請願運動も何回もその筆頭請願人になったり、所謂請願委員を率いて東京に行って有力な代議士に会ったり、新聞社に出かけたり、遊説活動をされた方です。台湾の文献では「台湾議会の父」と書かれたりしています。
  それともう一つ、日本が負けて台湾が中華民国の一つの省に編入され、台湾民間では誰が代表人物かということになった時、やはり自然に出てきたのは林献堂でした。しかし、その後林献堂が戦後台湾のリーダーとして活躍できたわけではないというところが、台湾の戦後史の重要な曲折の一つであると思います。当時の台湾のトップにあたる台湾省行政長官の陳儀という人は、1946年に台湾視察に来た蒋介石に林献堂が近づくのを非常に嫌って会うことを妨害したとかいう話もあります。しかし、その後の激しい情勢の変化の中で、林献堂は1949年に日本に亡命して、東京の久我山で客死しました。「台湾議会の父」と呼ばれ、戦後、台湾の「第一市民」と呼ばれたような人が1956年には東京で客死する、私はこのことを中国国民党統治下での台湾土着の有産階級の政治勢力の衰落を象徴する事柄であったのだろうと思っています。
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  ところで、この葉榮鐘が戦後沈黙を経て、1967年から執筆を始めまして『台湾民族運動史』という本を1971年に出しました。これは私も河原さんもそうですが、台湾研究をする際、どういう分野に取り組むにせよ、一応歴史を勉強するわけで、その時やはりこの本は見なければいけないもの、1970年代日本での台湾研究のいわば標準教科書の一冊みたいなものでした。これを彼は戒厳令下で書いていたのですから、そのことをよく考えないといけないと、どうやって戒厳令下で書いたのか、どういう志で書いたのだろうかということを考えてみたくなったわけであります。幸いにご遺族の方が日記などを整理されました。そして『葉榮鐘全集』も出版されまして、そこに日記なども収録されました。私は彼の日記をくりかえし読みました。それである程度、私が知りたいことを見ることができるだろうということで、研究を始めたわけです。まだ満足のいく成果が上がったとは言えないのですが、今日はそれを少しお話させていただきたいと思います。
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  まず、私がなぜ若い時に2、3度お会いしただけのこの人を、台湾に関心のある皆さんでさえあまり名前を聞いたことのない人の研究をするようになったか、というのは、かなり個人的なきっかけがあります。葉榮鐘の日記の1973年3月6日の条という所にこういうことが書いてあります。「午前10時に河原が若林を伴って約束通り来訪した。正午まで話していたけれどまだ帰らないので、家内がビーフンを作って御馳走した。食事をしてから1時40分になってやっと帰った」。
  自宅の書庫でちょうどこの部分を探し当て、この「やっと」という文字が目に入った時は、顔が赤らんだのは自分でもわかる感じがしました。ですから、若気の至りというか、人の家を訪問するエチケットを知らないで、昼になってもまだ居たという、そういう恥多き青春の時代の一齣が、あの葉榮鐘の日記に記録されてしまっていたという、面白いといえば面白いのですが、やはり恥ずかしいという感じでした。
  しかし、ただただ恥ずかしいと思ったからそれで研究しようと思ったわけではなくて、この一節を見た時は、私も相当な年でありまして、80年代からは戦後の政治史なども研究して、戦後の台湾人の歩んできた歴史についても一定の認識はありました。その昔、河原さんに連れて行ってもらって初めて葉榮鐘に会ったその時は、もちろん彼が林献堂の秘書で、1920年代の様々な政治運動を通していろいろな人や裏側もよく知っている人だということも知ってはいました。ですが、実はこの一節を読んで、その恥ずかしさのショックと共に思い出したのは、当時はそれだけでしかあの方を見ていなかった、つまり、当時のことを知っている情報提供者としてのみ見る視線で、今からみれば大変失礼な態度で接していたのではないかということです。
  その後、戦後の台湾の政治史の中で台湾の人々が歩んできた道、苦しみとか喜びとかいろいろあると思うのですが、それらにある程度触れてくると、やはり当時の自分の姿勢は正しくなかったと思いました。戦前のいろいろな運動のことを知っている人だからいろいろ教えてもらいたい、それはいいのだけれども、その人にも戦後の歳月というものがあったわけで、それをちゃんと考えに入れないで、こちらが書かねばいけない論文に役に立つことを教えてくれる人というふうにしか接していなかったというのは、やはり間違いだったと思いました。ですから、やはり葉榮鐘の戦後の歳月というものをきちんと見るということを一度しないと、なんというかお詫びにならないという、そういう感じがしました。
  私としては若い頃、日本に対する抵抗運動、鉄砲や刀を持って抵抗するというのではなくて、近代的な政治運動、社会運動として植民地統治に批判的な活動をした人たちが、台湾が日本の統治を離れてからどういうふうに生きたのか、生きざるを得なかったのかということを自分の認識の中にちゃんと入れなければいけないという思いで、葉榮鐘について研究を始めたわけです。2.葉榮鐘と「葉榮鐘」達 -初代学歴エリートにして初代「台湾青年」
  葉榮鐘はどういう人か、その経歴は後でお話しますが、その前に「葉榮鐘」達というふうに、同世代の人をひとくくりにして考えてみたい。植民地台湾で生まれ育った人達というのは、世代ごとにだいぶ経験が違っている。日本への割譲から10年くらいの間に生まれた人たちは、二つの意味で台湾の歴史の中で「初代」を背負う人であろうと思います。(1)初代学歴エリート層の夢と挫折 ご案内のように台湾における近代的な学校制度というのは、日本植民地統治時期に初めて出てきたものです。清朝時代には科挙というものがありました。それは出世するための、あるいは一族の中にお役人が一人いれば一族を守ることができるからという理由もあって、国家が社会に与える重要な資源でもありました。近代の学校が出てきてしばらくすると、その学校を出たということ、つまり学歴が、社会的価値になるという時代が当然やってきます。「葉榮鐘」達はそういう世代の人達、近代学校を出たという事で社会エリートとしてある程度のステータスを得ることができるようになった初めての世代だったといえます。
  まだ単純であった1919年までの台湾総督府の学校制度では、いちばん下に公学校という台湾人向けの初等教育機関がありましたが、その上は医学校と国語学校の二つしかない。医学校卒業生は、「公医」という総督府が雇用するお医者さんの職がありまして、まずそれを務めてから自分で開業するなら開業するということをしていました。国語学校の方は日本語を習わせて統治の手足に使う人が必要ですし、公学校が増えてきますので先生が必要になるということで師範部というのがあるわけです。とにかくこの二つしかないから、統治の初期は総督府の医学校か国語学校を出れば、台湾社会の中では学歴エリートだということになります。更に医学校だけでは満足できない、また国語学校を出て学校の先生をやるだけでは満足できない場合は、台湾には上の学校がないわけですから、日本内地の学校に進学するという人達がだんだん増えてくる。これが第一次世界大戦の頃です。
  その後、その人達がいろいろ政治・文化運動などを開始するというのが第一次世界大戦後の1920年代ということになります。日本の植民地統治下で学校教育、特に初等教育の拡大がどんな具合であったかというと、1930年代後半から急速に増えております。その前も増えてはいますが、30年代後半の伸びが大きいということになります。最近の研究では、学校教育が普及していった背景には、やはり台湾社会の側が教育機関をかなり執拗に求めて、これに総督府がある程度応えざるを得なかったということがあるようです。
  もう一つの「初代」は、こういう人達の中から先ほど触れた台湾議会設置請願運動とか、そういう植民地統治に批判的な民権運動、民族運動と言ってもいいし、後には農民運動、労働運動というのも出てくるのですが、そういう運動のリーダーが出てくるということなので「初代」が二つ付くわけです。学校を出た人が全員そうなったわけではないのですが、二つの「初代」が付く一群の人々がいるというのがこの世代の特徴だと思います。植民地である台湾に、日本は最初から日本内地とおなじ形の学校制度を敷いたわけではありません。1919年以前の学校制度のピラミッドは非常に単純です。その後だんだん日本内地と同じように複雑化していくのですが、植民地の近代学校制度にはどういう意義があったのかというと、台湾の教育史学者の許佩賢氏は、三重の性格があったと言っています。
  ①西欧的近代教育:近代西洋の文明、科学、技術、思想、そういうものを国民に伝播して国民を啓発していくという側面です。その最終的な到達点としては国民全部がそのような教育を受ける事を目指していくのだということが建前なります。ですから、先ほど言いました台湾の初代の学歴エリート達にとってみれば、別のキリスト教ミッション系の学校というルートもあるにはあるのですが、多くの場合、日本の台湾総督府が作り出した学校の教科の中から、新しい世界への眼が開かれるという経験をしているわけです。
  ②近代日本国民教育:日本がやっている教育なので、この側面も当然にあります。教育勅語はすぐに公学校などに配付されて教えられました。1895年当時の日本本国で文部省が作り上げていた学校体系そのままをいきなり台湾に移植するというのはもちろん不可能なわけですが、台湾の人達が「近代西洋の学校」のよいところを知り、もっと教育して欲しいと思い始めてしまうと、総督府が台湾でやっている制度は差別的だというふうに感じざるを得なくなってくる。近代的な学校をそのコントロール下にある程度普及させていく際の台湾総督府の目論見と、近代学校教育を受容していく台湾の漢人社会の目論見は同じではないわけでありまして、台湾の学者陳培豊氏の言い方を借りると、学校教育をめぐる「同床異夢」の状態であったということです。そうして「同床異夢」ながらも次第に初等学校から普及していき、1920年代末には帝国大学もできます。中等学校も増えて日本内地の学制に近い形ができてくるわけですが、しかし、台湾人の方は、西洋文明、科学技術知識を吸収できるので学校を受け入れるのですが、日本側には天皇に忠誠な臣民を育てなければいけないというもう一つの課題があるわけです。台湾人からすれば、そのために子弟を学校に送ったわけではないので、近代日本国民を作るぞという同化教育という面に対する台湾の漢民族の反応は鈍かったというふうに言っていいと思います。
  ③差別的植民地教育:もう一つは、植民地のインテリの常としてぶつかる壁です。学歴というものは、基本的にその学歴を取得すれば社会的地位の上昇の資源にできるというものですから、同じ日本帝国内で同じ大学を出れば、出世のための同じスタートラインに立ててしかるべきであると植民地の人が思うのも無理はないわけです。しかし実際には、「帝国運営の重役室」、これはベネディクト・アンダーソンの有名なナショナリズム論『想像の共同体』の中にあった言葉ですが、これには入れないのです。日本帝国全体の「重役室」はもちろん、台湾運営の「重役室」にさえも基本的には入れない、ですから、この面でも近代学校制度というものがそもそも含意している社会的な上昇のルートというものについて、昇りたいという側と、待ったをかけるないしダメを出す側と、そこは必ず思惑の違いがあったということです。
  では、そういうふうにして「重役室」には入れないよということになった場合に、台湾人はどういう進路を選ぼうとしたのか。これについては最近具体的な研究が出てきて面白くなっているのですが、一つは、与えられた植民地統治の末端の地方の役所で働くとか、そういうようなことも含めて植民地統治に「協力する」という道です。公学校の先生を忠実にやる、役場の書記になるといったところでしょうか。それから「抵抗する」という手があります。もっとちゃんと待遇を改善しろと、公学校ではちゃんと漢文を教えろと、漢文を削るのは反対だと、わが町に中学校をちゃんと作れと、とかです。それで甚だしくは我々の税金を使って総督府は予算を組んで施政をするわけだから我々もそこに発言権があるはずである、だから台湾議会を作れと要求するというふうになっていくわけです。そういう抵抗の政治に入っていく道というのも1920年代には狭いけれどもあったといえます。もしそれができない場合は、ある程度の経済発展がありましたので、新しく作られた信用組合などの団体に入るとか、その他のやり方で「実業」の道に入っていくということもありました。教育を受けた階層というのはだいたい資産家の子女なので、政治とか文化とかの方面でうまく行かなければ、家の資産を使ってビジネスをやるということも可能であったわけです。
  日本植民地時代、抵抗的政治運動があり、「台湾議会」を作れとの運動があった、台湾総督府はこれを拒否し続けたわけですが、戦後の中華民国統治下に入って、台湾省議会というのができました。さらに国会も存在しました。しかしその国会というのは非常に奇妙な国会で、長い間改選されない国会、70年代からは部分的にだけ改選される国会で、1992年になって漸く「全面改選」となったのですが、要するに日本もそうですし中華民国もそうですが、近代的な国民国家であるべしという建前がある、そこでは、国民は、皆が教育を受け、それに基づいて事業を行い、あるいは政治に参加するということが基本的には理想であり建前なわけですので、その建前を否定するわけにはいかないから、あれこれ理由を付けて「今はダメだ、待ちなさい」と言うのです。だから、自分たちはこういう権利を持つべきだと目覚めてしまった人にとっては途方もなく長い待機の時間が生じる、実現されるまでの時差が生じてきてしまうことになります。台湾では太平洋戦争末期になって徴兵制が敷かれ、その頃になってやっと衆議院議員選挙法が台湾に施行されました。しかしこれは普通選挙ではありませんでした。日本本国とは時差が生じているわけです。 戦後について見ると、1947年にそのまま実施されれば大変民主的な中華民国憲法が制定・施行されたのですが、皆様ご存知のとおり1949年以降は長く国民党一党支配が続いたわけです。例えば、野党の結成できなかったというようなことがありました。政治的自由があって、地方議会ではなくて国会もちゃんと改選されますということが実現したのは1992年です。「中華民国憲法」は民主的な権利と民主的な議会を約束していますが、それが現実となるまで、これまた時差がありました。原理的にいけないと言っているわけではありません。憲法が約束しているのですから。でも今はダメだ、今は共産党、当時の言葉でいう「共匪」との戦争をしているのだ、だから今はできないと言われて37年も続いた長期戒厳令の中で待たされたわけです。残念ながら葉榮鐘先生は、その待機の時間の間に亡くなってしましいました。
(2) 葉榮鐘の前半生————林献堂秘書、「抗日運動右派」の「文胆」、ジャーナリスト
  いよいよ葉榮鐘その人の話に入ります。彼は鹿港の生まれで、子供のときに父親が亡くなってしまってから家が傾いてしまった。鹿港公学校に入ったのですが、漢字と漢文を習うために伝統的な寺子屋みたいな書房というのがあってそこにも通った。ですからこういう二重の教育を受けたということは、後に彼が中国語も日本語も書けるという人材になっていくというその出発点かもしれません。ですが家が傾いてしまったので、公学校卒業後、彼は大変向学心の強い人だったようで進学したかったけれどもできなかった。それであちこち仕事をしているときに、公学校の先生の一人が林献堂の日本語秘書をしていて、それで葉榮鐘を林献堂に紹介しました。
  林献堂は中部の大地主・富豪で、子供を初等教育の時から日本内地で学ばせたいと思っていました。その場合、仲間を連れて一緒にやらせた方がいいということで、いわゆる「御学友」として一緒に日本に行かせて勉強させるということで、葉榮鐘に資金援助をしたものと推測されます。葉榮鐘は東京に行き、一種の予備校である神田正則学校に入りました。これは先ほど言いましたように、台湾と日本本国で学制が連続していませんから、まず別の学校に入って次の段階の学校を受験できるように勉強をしなければならない、そのため予備校に入っていたのですが、1921年に呼び戻されまして林献堂の日本語秘書を6年くらい努めました。この頃は1920年代で、政治運動や文化運動が最も盛んな時期だったので、このいちばん盛んな時期に林献堂を補佐してあちこちを回り歩き、いろいろな人と交流して、幅広い見聞を獲得したと思われます。その後、林献堂に頼んでもう一度日本に渡ります。予備校はすでに出ているので、大学を受験して中央大学に入学します。中央大学卒業後、実はもっと勉強したかったのですが、台湾地方自治連盟という団体を作るからということで林献堂からまた呼び戻されました。同連盟が対外的に発表する文書などはほとんど葉榮鐘が起草したものと思われます。その意味で、彼は抗日政治運動右派(林献堂のライン)の「文胆」(文書幕僚)となっていったと考えられます。 ところで、台湾地方自治連盟のリーダーは楊肇嘉で、なかなかの人物だったのですが、それだけに自己顕示欲の強い人でもあって、いろいろ悶着を起こしたらしいのですが、その悶着の一つが後に葉榮鐘に『台湾民族運動史』を書くきっかけとなります。

3.「述史」の志————同時代史叙述への意志と追求
⑴戦後の葉榮鐘の沈黙と文筆家としての復活
  1930年代後半にようやく台湾人自前のジャーナリズムが発展して日刊紙『台湾新民報』を出すことができるようになり、葉榮鐘はその記者となりました。その後戦争の大変な時代になり、日本が負けました。戦後初期、ある一瞬だけ林献堂は政治的に復活して台湾の民意を代表するような人物として行動をとるのですが、陳儀一派に押さえつけられてなかなかうまくいきません。うまくいきませんが一時復活の時、葉榮鐘ももう一度林献堂の秘書としても活躍します。林献堂が外に出すいろいろな文書を今度は中国語で起草するわけです。
  ところが二・二八事件が起こり、彼も台中地区で一定の役割を果たしたました。ただ、恐らく林献堂の庇護というものが効いたと思うのですが、彼に弾圧が及ぶことはありませんでしたが、当時務めていた台中図書館の文化部長の職は辞めざるをえなくなり、最終的には生きる術として彰化商業銀行に就職することになりました。林献堂系の幹部が多いところでした。
  その後長い沈黙が訪れます。1956年に林献堂が東京で客死し、翌57年葉榮鐘の編集で『林献堂先生栄哀録』が出ました。この時までまるまる10年間公開の文筆活動はありません。台湾の清華大学所蔵の資料を見ても、1947-54年の間は簡単な日記さえ記していません。しかし、『林献堂先生栄哀録』編集をきっかけに文筆家葉榮鐘が復活していきます。林献堂の追悼文集『林献堂先生記念集』(全三冊、1960年)や『羅萬俥先生栄哀録』 (1963年、羅萬俥は彰化銀行頭取)など編集執筆し、同時に少しずつ随筆を書くようになりました。最初は目立たない『彰銀資料』などから次第に新聞などからも執筆依頼が来るようになりました。それらをまとめて、1965年には随筆集『半路出家集』が、67年には『小屋大車集』を出版しています。
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⑵「述史」の志————「自伝」「先賢印象記」「台湾政治運動史」「国民党統治下二十五年史」
  葉榮鐘の日記やアメリカ留学していた長男葉光男への手紙などの記述を総合すると、葉榮鐘自身の言い方で、次の四種類の形で「歴史」を書こうとしていたことがわかります。「自伝」、「先賢印象記」、「台湾政治運動史」、そして「国民党統治下二十五年史」です。
  まず「自伝」、これは生前に幼少年期についてのものおよび戦中から戦後初期にかけても追憶の記録が発表されています。1920〜30年代の青壮年期については、戦前林献堂の秘書時代とジャーナリストの時期ですから、「台湾政治運動史」にとけこんでいると言えます。そして「先賢印象記」、これはその秘書時代に実際に接したことのある政治社会運動家の評伝です。「台湾政治運動史」は、最終的には次にのべる『台湾民族運動史』として実現しました。
  最後に、「国民党統治下二十五年史」、これは書かれませんでした。やはり戒厳令下では、原稿を書くだけで危険であると思われたのでしょう。ただ、日記に記された詩から、葉榮鐘が抱いていた国民党統治への違和感を見て取ることができます。だからこそ、「国民党統治下二十五年史」を書きたいと思ったのでしょう。日記を見ていくと、二・二八事件にかかわる2月28日前後には全く政治的な含意のある記述は無いのですが、「光復節」(10月25日、在台日本軍の降伏接受式典が台北で行われた日)の日記には、1970年と71年の二回のみ、次のような詩が記されています。

 ☆1970年10月25日(新体詩) 但願這是一場惡夢 一覺醒來月白風清 無恥與殘虐隨風消失 歧視與壓迫化於無形 憤怒不再動我的心火 醜惡不再污我的眼睛
 ☆1971年10月25日(七言絶句) 年年此日最傷神 追悔空教白髮新 送虎迎狼緣底時 可堪再度作愚民

 このような四種類の「歴史」を書くということは、要するに葉榮鐘自身が生きてきた同時代の証言を残したいと言うことであったと思います。結局「国民党統治下二十五年史」には取り組むことはなかったのですが、これも含めて、同時代の証言を残そうとした葉榮鐘の意思を「述史の志」と呼びたいと思います。

⑶『台湾民族運動史』の執筆と刊行
  今言いましたように、「台湾政治運動史」はもともと葉榮鐘自身が書きたいと思っていたものですが、外部的きっかけもありました。先にも触れました楊肇嘉の起こした悶着です。楊肇嘉は、葉榮鐘が書記長を務めた元台湾地方自治聯盟常任理事でした。彼が1967年に公刊した『楊肇嘉回憶録』があまりに楊個人の功績を誇大に書いているというので、同時代に行動をともにした蔡培火や呉三連らがたいへん不満に思い、これを是正すべき歴史記述をすることを葉榮鐘に求めたのです。蔡培火らにとっては、葉榮鐘はこの時になってもかつての「抗日右派」の「文胆」だったのでしょう。
  葉榮鐘はこの要請を受け入れました。そもそもこの要請がなくても取り組むつもりでいたのです。蔡培火らの要請があったのが同年4月、翌5月から関連年表作成にとりかかり、これは10月に完成しました。この間、1920年代政治・社会運動についての台湾総督府の記録である大部の『台灣總督府警察沿革誌(第二篇):領台以後の治安狀況(中卷)台灣社會運動史』も手許に確保しました。そして、68年1月から本論執筆に取りかかり、70年3月に脱稿しました。
  ところで、葉榮鐘の日記を読んでいくと、この自身の代表作の執筆、出版の過程が、彼の人の親としての最後のつとめの段階と重なっていることがわかり、私としてはたいへん感慨深いものがありました。長男がアメリカに留学し結婚(65年)、そして博士学位得ています(69年)。これより先長女は日本に渡り葉榮鐘の友人の息子と結婚(59年)していましたが、まさに「政治運動史」の執筆にかかろうとしていた時に病気でなくなってしまいました(67年)。この頃の日記を見ますと、自身の悲しみに立ち向かうこともさりながら、悲嘆に暮れる妻を慰めるのに心を砕いていた姿を見出すことができます。そして、同書刊行からその後にかけて、次女大学卒業、結婚(71年)、そして渡米(72年)と、父親として、子ども達が一人前になっていく最後の歳月を見守っていたことがわかるのです。
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4.抗日政治運動の記憶を伝える————葉榮鐘を訪れる若者たち
⑴蔡培火との確執————「文胆」と「述史」の志の間
  このような人の親としてのつとめを果たしつつ書き進めた原稿は、70年3月に脱稿し、翌月から呉三連の経営する『自立晩報』に翌年一月まで「日拠時期台湾政治社会運動史」と題して連載され、ついで71年秋に自立晩報社から『台湾民族運動史』として刊行されました。
  ところが、この本の出版に際して、葉榮鐘にとっては腹に据えかねる事態が発生しました。まず、『自立晩報』連載時に作者の葉榮鐘には全く断り無しの修正が多々有りました。そして、何よりも執筆者が「蔡培火、林柏寿、陳逢源、呉三連、葉榮鐘」連名となり、蔡培火が筆頭、実際には全てを書いた葉榮鐘が末席に連なりました。
  ここまでは、葉榮鐘もこらえたのですが、我慢ならなかったのが、単行本が『台湾民族運動史』と題して刊行されるに際し、序文に「葉榮鐘君が初稿を執筆した」とされたことでした。この序文も実は葉榮鐘が書いたものでしたが、そこに蔡培火が「初稿を」を書き入れたのです。これでは、葉榮鐘の役割は下書きをしただけのものに貶められてしまいます。
  葉榮鐘は、戦前抗日政治運動の先輩でもあり、戦後台湾でも政治的社会的に地位のあった蔡培火らに対して異を立てることをしてきませんでした。蔡培火は行政院政務委員(無任所大臣)を務めたことがあり、当時中華民国赤十字社会長でした。前に述べてように、呉三連は新聞社の社主であり、かつて台北市長を務めたことのある人物でした。かれらにとって葉榮鐘は、戦後になっても依然として「秘書」的人物でありせいぜいが「文胆」にすぎなかったのですが、一方、葉榮鐘は、50年代後半より「書くこと」によって、一人の文筆家となっていたのであり、そして何よりも自身の「述史の志」を育んでいたのです。
  葉榮鐘は怒り、蔡培火宛絶交状をしたため、知り合いの印刷所でタイプ打ちの書面まで作成しました。しかし、結局絶交状は発送はしませんでした。次女葉芸芸の回想によると妻施繊繊の勧めにしたがったのだそうです。

⑵葉榮鐘を訪れる若者たち
  このように、葉榮鐘にとって『台湾民族運動史』の刊行過程にはたいへん遺憾なことがあったわけですが、その後にはそれを補ってあまりある報いがありました。海外からは執筆をたたえ同書の刊行を祝う消息が届き、台湾内部では、若い世代の編集者や学生・大学院生、さらには「党外」の若きリーダーまでが、同書を読んで葉榮鐘を訪ねて来たのです。以下日記から判明した人々を列挙します。
 *陳少廷:当時『大学雑誌』編集者、作者•
 *康寧祥:「党外」-民進党立法委員、後陳水扁政権国防部副部長•
 *李南衡:文学研究者、後に葉榮鐘『台湾人物群像』(1984年)を編集•
 *盧修一(1941-98):後パリ大学卒、民進党立法委員•
 *林載爵:台湾文学史研究、後に聯経出版社長•
 *簡炯仁:後台湾史研究者、靜宜大學生態學系教授•
 *林瑞明(1950-2018):後台湾文学研究者、詩人、成功大学教授•
 *呉乃徳:後政治学者、中央研究院社会学研究所研究員•
 *張炎憲(1947-2014):後東京大学留学、陳水扁政権時国史館館長
 このうち、康寧祥は1970年代の民主運動勢力である「党外」勢力の代表的リーダーとして知られる人物で、1972年に立法院議員に当選しています。康寧祥は台北市の萬華地区に住んでいて、そのすぐ裏が葉榮鐘の親友である王詩琅の住居でした。康寧祥の回想録によれば、高校生の頃から窓越しに王詩琅と雑談するようになり、王詩琅から台湾語で台湾近代史のあれこれを教えてもらったそうです。王は後に「台湾史の生き字引」と若い台湾史研究者から呼ばれることになる人物です。康寧祥の72年の当選は、かれが街頭演説で台湾語によって1920年代の台湾人の政治・社会運動の歴史を大いに語って支持を拡大したことが大いに関係しています。戦前の台湾人の奮闘の歴史を耳にすること、それも台湾語で語るのを耳にすることは、当時はたいへん新鮮なことだったのです。
  そして、康寧祥は1975年に政論誌『台湾政論』を発刊すると、葉榮鐘に戦前の台湾人政治・社会運動史についてしばしば寄稿を請いました。葉榮鐘はそれに応えて、後に『台湾人物群像』(1984年)に収録される文章を3本書いています。また、康寧祥は1975年3月立法院で質問に立ち、「台湾文化協会」「台湾議会設置請願運動」などの歴史を語り、こうした事蹟は正当に評価されるべきで教科書にも書き入れられるべきだと主張しています。

5.結び
  海外からの手紙にしろ、台中に葉榮鐘を訪ねた若者たちにしろ、かれらは葉榮鐘こそ『台湾民族運動史』の作者であると見なしたのです。わたしは、研究作業中かれを訪ねて来た人々のリストを作りながら、葉榮鐘の、そして妻施繊繊の隠忍自重は、こういう形で報われたのではないかと思いました。
  葉榮鐘の「国民党統治下二十五年史」は終に書かれることはなく、また1978年に死去した彼は、その後の美麗島事件、民進党の結成、長期戒厳令の解除、「万年国会」の改選、そして総統直接選挙の実現という民主化の過程を目にすることはできませんでした。しかし、これらの青年の訪問や康寧祥の行動に見られるように、かれの「述史の志」の伝達はぎりぎりのタイミングで間に合った、その精神はこれら青年の世代にも、受け継がれたのだと言えると思います。
  ご清聴ありがとうございました。

by rlzz | 2018-12-15 15:57

台湾研究者若林正丈のブログです。台湾研究についてのアイデアや思いつきを、あのなつかしい「自由帳」の雰囲気を励みにして綴っていきたいと思います。


by rlzz