林瑞明君に初めて会った夏
2018年 12月 29日
「ワカバヤシサンンデスカ?」
生来の力強いバリトンに似ず、何かささやくような感じの声であった。時は1982年7月末、場所は台南駅出口改札口。これが、先月突如逝った林瑞明君が私に話しかけた最初で最後の日本語だった。
そして、それが我々の初対面でもあったのだ。院生の頃、日本植民地統治下台湾1920年代の抵抗運動に関心があった私は、林君が当時の「台湾新文化運動」に関する文章を発表しているのを知り、人を介してかあるいは本人に直接手紙を書いて頼んだのだったか、その文章を入手して読んだことがあった。だから、研究上旧知ではあったのである。当時、今は出版会の重鎮である林載爵氏の論文の他、学術論文で当時を論じるものはたいへん少なかった。そのわずか数葉の台湾から届いたコピーには、台湾知識界の新しい息吹が漂っているように感じた。
林瑞明君はそれから私を当時のかれの愛車でありスクーターの尻に載せて、おそらくまずは私が予約していたホテルに連れて行き、それから彼の成功大学の宿舎につれていったのではなかったかと思う。「おそらく」などというのは、当時私は台湾旅行でまったく日誌の類いをつけなかったからである。戒厳令下だから、有った人の記録も台湾内で身につけていないほうがよいと忠告する人がいて、その通りにした。今から考えると確かに「バカ」がつく正直であった。
それはともかく、小さいとはいえサムソナイトのスーツケースを抱えたまま、初対面の男の腰につかまって台南の街を疾走することとなった。一瞬とまどったのだが、すぐにこれが台湾式だと思って楽しくなった。
彼の大学の宿舎には、「放膽文章拼命酒」の文字が表装して架けてあった。きけば葉榮鐘の詩の一節だという。どこかで出会ったことのあるような詩句なので、一瞬私の乏しい中国文学史の知識にも出てきそうな有名な詩人のものかと思ったが、意外であった。実はそのほぼ十年前にわたしは葉榮鐘氏に会っているのである。葉榮鐘氏が林献堂の秘書を務め、『台湾民族運動史』の著書がある人物であることは十分承知していたが、その詩人としての姿に触れることになったのは、その時から30年ほども経た後だった。それでも、その時葉榮鐘という名前が気になったらしく、林君に撮ってもらった写真が残っている。残念ながらぼやけている。
鹿耳門の夕陽
多分その日のうちに鹿耳門まで連れて行ってもらった。なぜかわたしが希望したのである。またしてもスクーターの尻に乗って、まだまだほこりっぽい道をけっこうな時間走ったのである。この時のことは翌々年機会があって書いた歴史エッセイに触れた。まだ戒厳令下だったので「L君」とした。
当時鹿耳門の天后宮は、何回目なのかわからないが改装中で打ちっ放しのコンクリートが剥き出しのままだった。入口近くで地元の若者らしい人が数人米酒を飲みながら拳遊びに興じていた。その時、鹿耳門から見た台湾海峡の夕日が忘れられない。
30数年後、今度は同学科の陳文松副教授の車に乗せてもらって、一緒に「旧地重游」をした。林君はもう成功大学歴史学科を退職していて悠々自適の日々、とはいっても一日おきの透析はたいへんそうであったが、一方私も東大教養学部をやめて早稲田大学政治経済学院に移籍していた。そして、着いてびっくり、周辺はすっかり整備されてしまっていて、天后宮は巨大化し、またその向かいには、これまた巨大な鄭成功像が立っていた。
美濃の旅
その頃の台湾旅行は、まことに大まかな予定しか立てなかった。その後、林君の誘いで美濃に一泊の小旅行をした。作家鍾理和の子息鍾鉄民さんを訪ねようというのである。林君の新婚の奥さんも一緒だった。まず高雄市内でバスにのり、美濃のどこかでもう一つ小さな、何時の頃からか見かけなくなったボンネット型のバスに乗り換えて、そのバスも降りてから歩いて鍾鉄民さんの家に着いた。
私は、日本は長野県の山に囲まれた盆地に育った。伯父が盆地西側の山腹にりんご園を経営していて、子どもの頃伯父の家に遊びにいくには、山麓の町まで、この時と同じようなボンネット型のバスで行って、さらにバスに乗り換えるか、歩いていくのだった。美濃はそんな記憶を思い起こさせるところだった。
鍾鉄民さんも作家だが、当時は中学校の先生をしていてオートバイで近くの旗山鎮に通っていた。自分の家の敷地に鍾理和紀念館を作ろうとしていて、私が連れて行ってもらった時は、またコンクリートを打ったばかりのところだった。90年代以降とは事情が違って、公的補助や大口寄付も無いので、台湾文学愛好の有志の浄財を募り、お金が集まったら集まっただけ作っていくのだとのことであった。
10年後くらいたってもう一度林瑞明君につれていってもらったと記憶している。その時には紀念館はもう出来上がっていて、展示品もだいぶ集まっていた。鍾鉄民さんもオートバイから自家用車に乗り換えていた。
その後、高雄では葉石濤先生や詩人の鄭炯明にも紹介してもらったし、葉石濤先生を囲む文学者の集まりにも顔をださせていただいた。たしか当時まだ高雄では(おそらく台北でも)数少ないコーヒーショップでの集まりだった。何事か、皆で大笑いしている写真が残っている。私はこまめに写真をとるタイプではないので、今残っている林君と自分が映っている写真の多くは彼が撮ってくれたものである。
林君の絵はがき
林瑞明君で好きなことは三つある。あのバリトン、あの髭面の笑顔、そして彼のペン字である。彼には何かにつけて絵はがきを出す習癖があったようだ。なかなか魅力的な字なので、もらって愉快に感じていたのは私だけではないと思う。少なくとも5,6枚はもらっているはずなのだが、書斎を探してみても今のところ2枚しか見つからなかった。
1枚は、1985年5月7日付けのもので、私が柄にもなく解説を書いた『現代台湾小説選Ⅲ』が届いたと知らせ、おそらく夏に台南にいくからよろしく、と私が手紙に書いていたのであろう、「まかせておけ」と応じている。表の写真はどこかわからないが、人力車が映っているので、台湾の友人ならいつ頃の写真かわかるだろう。私は初めて訪台した時、屏東で人力車に乗ったことがあるが、それが1973年3月であった。その時台北ではもう人力車は見かけなかった。
もう1枚は、2010年12月26日付けである。かれが館長を務めたことがある国立台湾文学館発行の絵はがきで、表の写真はバルザックの肖像である。この年に私は転勤しているので、宛名の住所は早稲田大学になっている。私が中央研究院台湾史研究所の『台湾史研究』に発表した「葉榮鐘的『述史』之志」を読んだぞと知らせてくれている。最初に書いたように、初めて会った夏に、かれの宿舎で「放膽文章拼命酒」の詩句を目にした。この宿舎はその後すぐ林君が不在の時に火事に遭って、その時までに集めた本や資料を全部燃やしてしまったそうである。「放膽文章拼命酒」の掛け軸はどうなったのか、いつか尋ねようと思っているうちに、彼は突然逝ってしまった。
実は私には、院生の時にもらった呉濁流の直筆の掛け軸がある。定年退職したら、また台南にでかけ、かれの体調の良い時間に会って、その詩句の意味を解釈してもらおうと思っていた。もうそれもできないのだ。
「生命を燃焼し尽くすのみ」
中年になって、林瑞明君は大学からサバティカルをもらって一年東京に研究滞在したことがある。上野から信越線に乗って、私の故郷の小さな町のある善光寺盆地を案内し、それから篠ノ井線(中央線の支線)に乗って松本城を見に行ったこともある。その頃、下北沢の居酒屋で一緒に酒を呑んだ。どんな話の成り行きだったかもう覚えていないが、「僕は自分の生命を燃焼し尽くすのみ」と、あの豪快な笑顔とバリトンで叫んだ。林瑞明君は詩人林梵だったのだ。確かにこの言葉のような人生、林瑞明=林梵らしい人生だったと思う。