亥年元旦読書の記
2019年 01月 01日
内容は、1918年生まれの作者の母の60年にわたる「洋裁人生」の物語である。どんな人生か、訳者の要約を引くにしかず:「(主人公は)1931年に親戚の結婚式で初めて見た白いウェディングドレスに衝撃を受け、その後、家業の日用品店を手伝ううちに、包装に使っていた日本の婦人雑誌のなかに洋裁のページを発見し、見よう見まねで洋服を作りはじめ、1936年(満17才)より、日本人が経営する台南・末広町の日吉や洋装店で働き、本格的に洋裁の腕を磨いた。1939年の独立後、仕立て仕事をしながら洋裁を教えていたが、40年日本へ”洋裁留学”し、さらに最先端の服飾デザインを学んだ。帰台したのち、1944年に結婚、台湾が中華民国に復帰した戦後、1953年には洋裁学校を開校し、94年のリタイアまで台湾の女性の自立を後押しした」。
最後の「台湾の女性の自立を後押しした」は、本書未読の人には説明が必要かもしれない。人々が、特に女性が既製服をデパートなどで購入するのが一般的になる以前、「洋裁」の技能への社会の需要は高く、その技能を獲得することは、女性の自立への道を開く輝かしいものだった。これとパラレルな事情は、近現代の日本にもあった。訳者も触れているが、NKHK朝ドラの主人公として描かれた1913年生まれの小篠綾子も、主人公施傳月とほぼ同世代である。
作者の描くところから推測すれば、台湾では植民地統治下の遅くとも1930年代には、女性の社会的自己実現の輝かしい技能であり始めていたのである。そして、施傳月こそが、「洋裁」を現実にそのようなものにしていった女性の一人であり、台湾の「洋裁」が女性の自立に具体的にかかわっていた植民地期から中華民国統治期までの一甲子の時間を駆け抜けた誇り高い女性だった。
施傳月は公学校しか出ていない。しかし、その公学校で身につけた識字能力が、彼女を「洋裁」に引きつけ、自立の糧とする基礎能力となったのである。その識字能力が日本語能力だったことが「植民地的」ではあるのだが、洪郁如が指摘するように、30年代には、農村女性を含む庶民の女性にまで、識字能力がさらに一つ開けた人生への窓を開くものであることが感得されていたのである。確かに、植民地住民の教育機会の拡大は総じておさえられていた。しかし、1910年代から教育施設の拡充・充実や日本人子女のそれとの公平性の要求は、台湾漢人社会では途絶えたことがなかった。そして、1930年代以降社会教育としての「国語」講習会が普及するが、その背後には、農村社会の女性の息苦しいまでの識字への欲求があったと考えるべきなのだろう(洪郁如「読み書きと植民地--台湾の識字問題--」、一橋大学語学研究室『言語文化』第49巻、2012年12月、75-93頁)。それを表示する数字は「同化」の進展の証である、と当時は台湾総督府官僚によって刈り取られてしまうものであったかもしれないが、その社会的帰結は、あるいはその後の物語は、作者の母施傳月のような台湾女性たちの戦後の歳月に顕現したのだと言えよう。そのことがこの物語から感得できると思う。
天野健太郎は、訳者あとがきで、作者にはその父の生涯を書いた『尋找大範男孩』(台湾男児はいずこへ?————沈黙する戦前世代)という作品があることを紹介している。天野が「沈黙する戦前世代」とは、戴國煇かかつて言っていた「谷間の世代」、あるいは呉念真の「多桑」(父さん)の世代である。かれらの「沈黙」の有り様もまた台湾の近代のあり方を開示してくれるものだと思う。
ネットに掲載された消息によれば、作者は父と母を描く2作を同時に執筆していたのだとか。天野は父を描いた『尋找大範男孩』の方も訳すつもりだったのだろうか。そうだったとすれば、是非天野訳で読みたかった。だが、それは今はかなわない。