待つことと耐えること——定年退職雑感
2020年 03月 31日
「歳を喰ったら雑文を書け」——数年前台北であった時孫大川(プユマ族名Paelabang Danapan)さんからそう言われた。それもひとつの切っ掛けで始めたこのブログだったが、もう1年以上も何も書かなかった。
今日2020年3月31日は私の早稲田大学定年退職の日、そして40数年の職業生活最後の日である。ならばひとつ久しぶりにブログでも書こうか——今朝お気に入りの公園を散歩して軽い汗をかきながらそぅ思った。そこで孫大川さんの言葉を思い出したわけであった。
2年程前から毎日毎週の大学の仕事がたいへんきつく感じるようになった。特段に仕事が増えたわけではないし、私にきつい行政的役割が廻ってくるわけでもない。週6コマの講義・ゼミと院生指導、それに早大台湾研究所所長の雑務、これだけである。原因は詰まるところ、年相応に体力が減退したためである。それまでなら、ああ疲れてるなあ、息継ぎが欲しいなあと思うのは学期単位、せいぜいが月単位だったが、この頃から毎週となりさらには毎日となった。
そうすると、今日のこの退職の日がとても素晴らしい日になって輝き出す、そして「待つこと」が毎週・毎日の主な心の持ちようとなり、「待つこと」は「耐えること」だと今更ながらに実感するのに時間はかからない。外では言えない愚痴を家でもらすと家人は「もう少しの辛抱でしょ」としごくまともなことを言うので、「待つ=耐える」という真実をまたもかみしめるしかない。
そして、過ぎてみれば2018年はあっという間に過ぎ去り、2020年に入り、今週はあと何コマ、今学期はあと何週と指折り数える日々も今年1月末には終わり、博論の予備審査会や審査報告・投票という最後の試練も2月末には終わった。待てば海路の日和あり、この世に明けない夜はない。あとは最終講義をして最後の教授会とか送別会とかで「お世話になりました」と挨拶して、待ちに待ったその日を迎えればよいのである、久しぶりに二泊三日で温泉などにつかるのも悪くない。こんな皮算用をしていたのであった。
二
だが、すぐにそうも行かなくなってしまった。新型コロナウィルス肺炎(武漢肺炎)の流行である。大学からは大人数が集まる催し中止の指示が出て、最終講義とその後の懇親会は中止、最後の教授会での挨拶はできたが、学部としてのまた大学としての送別会も中止となった。3月初旬には台湾の政治大学のシンポジウムで基調講演をすることになっていたが、それも中止となった。実は私が台北に行けなくなったので早稲田の教室で録画して政治大学から来ている留学生が持って帰ってシンポジウムの会場でながす手はずになっていた。しかし、シンポジウム自体が中止となったので録画も取りやめた。私としてはいわば台湾での最終講義のつもりであり、主催者もその意味を込めて招請してくださっていたのである。中文でレジュメとパワーポイントのスライドを作り、二度ほど自宅で予行演習をして備えていたが、全部無駄となった。
人生の節目を惑わすコロナかな
などという川柳を作って自分を慰めたものである。
ところが、事態はあれよあれよという間にパンデミックにまで発展した。もはや川柳で自嘲しているどころの騒ぎではない。私は退職関連イヴェントが無くなって前倒しで事実上の退職状態になったので、そうしようと思えば五月末まで自己隔離ができるが、世の中の大部分に人々にとっては話はそう簡単ではない。大学ももちろんその機能維持の努力には未曾有のストレスがかかっている。
自分のまわりを見ても、家人はNPOの介護移動サービスというのがあり毎日体温を担当者に報告しては出かけている。介護者メンバーないしその近親者に一人でも感染者が出たら活動はすぐ停止となるかもしれない。息子や娘の連れ合いも皆東京都内に住み、仕事で都心に通っている。4月に入れば孫たちの学校が始まる。
誰もが日々の仕事・生活の責任や心配に加えて終わり見えない感染への不安を抱えこむようになった。このパンデミックの終息を「待つ=耐える」ことが大げさでなく全人類の日常となってしまった。医療や行政の前線にいる人々にとっては、日々一瞬一瞬がすでに闘いであるが、その他の人々にとっても、感染が自分や家族・同僚など近しい人の現実となれば、ただちに闘いの非日常に突入することになる。
三
二三年前のこと、家人がどこからか定年退職後の生活では「きょうようきょういく」が大事、という話を聞き込んできた。長年毎日出勤していた定年退職者の身体・精神の健康には「今日用事があり、今日行くところがある」のが大事だというのである。
新型コロナウィルス肺炎のため「今日行くところ」はガタンと減ったものの、おかげさまでまだ私に「用事のある」人もいて、幾つかの原稿書きや論文審査などで、6月末くらいまでは結構忙しいし、それ以降も例年恒例の「用事」がないわけではない。
前述のように前倒しで退職後的生活が始まったので、頼まれ原稿のひとつ「白色テロ」を背景とした台湾映画『返校』日本放映版の時代背景解説を書いた。そのために昔世話になった柯旗化さんの回想録『台湾監獄島』を再読した。柯さんは「白色テロ」の時期、2度にわたって「火焼島送り」、つまり緑島の政治犯監獄に投獄された経験を持つ。現在そこは歴史的不正義の記憶を残すための遺跡としてまた教育施設として「緑島人権文化園区」(園区=テーマパーク)になっている。私は数年前こうした遺跡の保存に長年携わっている曹欽榮さんの案内で見学したことがある。
柯旗化さんを収檻した緑島はまさに監獄島だった。だが、柯さんは緑島だけではない、台湾全島が「監獄島」だったという。さまざまな背景理由があって社会は留守家族には冷たく(あるいはそうせざるを得ず)、本人が刑期を終えて社会に戻っても、政治警察はつきまとい、監視の目は光り、いつなんどき再度の政治的災難に見舞われるかという不安の下で生きていかねばならないのが現実であった。監獄の中より外のほうが辛かったと述懐する元政治犯もいるという。『台湾監獄島』という書名の由来である。
四.
台湾が「監獄島」でなくなるのは、1970年代後半以後の下からの民主化圧力を受けて一連の自由化が進んでからのことである。よく知られているように、長期戒厳令の解除(1987年)、「叛乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止(1990年)、「叛乱懲罰条例」「共産党スパイ摘発条例」の撤廃、刑法100条の改正(1991年)などが実現して、ようやく台湾の「監獄島」は消滅した。1992年秋彭明敏氏や故黄昭堂氏など海外で台湾独立運動をしていた人々が台湾に戻ったのはその象徴であった。
われわれはこのことを後知恵として知っている。だからといって、渦中にあった政治犯やその家族・友人たちが、この時の訪れることを予め知っていたわけではない。かれらは、この自由の瞬間の到来まで何時終わるともしれない政治監獄の恐怖と不安とを心のどこかに抱えながら生きてきたのであった。「監獄島」の消滅を強く願い「明けない夜はない」ことを深く信じていたにしても、である。
「コロナウィルス禍」が日々深くなる状況下で、柯さんの回想録を再読し、関連する蘇瑞鏘さんの研究書や周婉窈先生のエッセイなどを読みながら、私は先に触れた「白色テロ」背景説明の短いエッセイを書いた。そして突然ああそうだなと思ったのである。今「コロナウィルス禍」の中で私が、そして今や全世界の人々が感じている先の見えない不安、自身が、また家族・友人・同僚が感染すればその途端に人生のランドスケープが一変してしまうかもしれない不安、それに身構える緊張、にもかかわらず粘り強く生きていこうという決意などなど、こうしたものは、台湾の「白色テロ」の時代を生きた多くの人々の心のあり方と似ているのではないか。
他者の歴史を理解するための手立てはさまざまにあるが、「共感」もひとつの手がかりだろう。もちろん伝染病の蔓延と国家テロとはかなり異なる種類の歴史事象ではあろう。当事者でない者の「共感」が当事者についての理解にどう結びつくのか、話は簡単ではないだろう。だが手がかりのそのまた手がかりくらいにはなるだろう。映画『返校』に出てくる「共産党スパイ摘発は国民の義務」といって校庭を逃げる生徒追いかける背の高い案山子のような怪物は、「新型コロナウィルス」に似てはいないか。
かつて多くの台湾の人々がこの怪物と闘い逃げ切ったように、いまや全人類が「新型コロナウィルス」と闘い、そして逃げ切らなければならない。
それにしても、歴史への共感のてがかりは、予期しない時に突然やってくるものらしい。