旧論再掲 試論:日本植民地帝国「脱植民地化」の諸相
2021年 02月 15日
試論:日本植民帝国「脱植民地化」の諸相
--戦後日本・東アジア関係史への一視角--
若林正丈
1.はじめに--現代史研究と「脱植民地化」概念
19世紀末以来半世紀にわたって維持された日本の近代植民帝国の解体は、植民地支配本国の対外戦争の敗北によってもたらされたものであった。すなわち、植民帝国権力の植民地からの排除という脱植民地化の中核的な政治的軍事的過程は、第二次大戦における日本の敗戦とともに短期間に終了し、戦勝ヨーロッパ植民帝国が経験したような、第二次世界大戦とは別個の政治的軍事的過程、すなわち反植民地勢力との戦争や交渉の過程、さらにはその国内政治への激しい衝撃の過程などを伴わなかった。イギリスが国民会議派やムスリム同盟との交渉を経てインド支配から身を引いていったこと、フランスがインドシナやアルジェリアでそれぞれの民族解放勢力と激しい戦争の末植民地支配の放棄を迫られたこと、特に後者の場合には第四共和制の崩壊という自身の政治体制の転換までも伴ったこと、等々を想起すれば、彼我の差異は明白である。
このため、一般的に(あるいは惰性的に?)、脱植民地化とは旧ヨーロッパ植民帝国とアジア・アフリカ地域との関係における事象と考えられる傾向が強い[1]。ヨーロッパ現代史研究においては、「脱植民地化」が統合的概念としてある程度研究を導いてきたと言うことが出来るのに対して、アジア現代史研究においては、日本の近代植民帝国の解体という事象の研究が、このような統合的概念の導き無しに展開されてきた。すなわち、日本植民帝国解体にかかわる事象は、一方で(a)アジア諸地域の民族解放闘争史、およびこれに続くこれらの地域における国民国家形成史として、他方で(b)戦後日本史、戦後日本対外関係史の一側面として研究されてきている。(b)は、「戦後責任」「歴史問題」などのイシューの政治化とともに遡及的にその背景研究として進められる側面もあるといえる。このように、ヨーロッパ現代史研究における「脱植民地化研究」と対置すれば、その個別・分散的な状況のゆえに、日本近代植民帝国の脱植民地化研究の欠落ともいえる状況を呈している[2]といえるのである。
しかし、西欧植民地主義に比してレイト・カマーであるとはいえ、また第二次大戦の敗北者でありその政治的軍事的解体がヨーロッパのそれに比すれば「瞬間的」に終了したものであったとはいえ、日本の近代植民帝国もまたまぎれもなく近代世界国際体系における「国民帝国」(山室信一、後述)の一つであり、そのようなものとして世界史の中に位置づけられるべきものであるとすれば、戦後その日本がその帝国性を否定されて再出発し、戦後東西冷戦が波及していくなかで東アジア地域に成立した新興国家・国民との新たな関係に入っていく曲折に満ちたプロセスも、また世界史的な脱植民地化のプロセスの重要な一部分を構成するものと言わなければならない。
ここに、近代日本植民帝国にかかわる脱植民地化の実相と意義の探求がおろそかにできない理由が存在する。旧植民地の脱植民地化と戦後日本の「脱帝国化」の観点から、戦後日本とアジアの関係史を見直すことにより、戦後日本と東アジア諸地域との関係を、世界史との新たな連関の中で、また戦前と戦後との連続・非連続のバランスの中で、新たに捉え返す視座を獲得できるのではないか、と思われるのである。小稿では、このような視座獲得の準備作業の一環として、「脱植民地化」の概念が含意するいくつかの歴史的側面を確認した上で、日本植民帝国の脱植民地化の諸相をアイデンティファイしてみたい。ただ、筆者は自身がこれらを論じきる準備と能力が備わっているわけではないことを深く自覚する。「試論」とする所以である。なお、行論の念頭に置く事例は主として韓国と台湾である。
2.脱植民地化の諸側面
(1)「国民帝国」の解体--独立無き脱植民地化と国民国家体系の拡大
脱植民地化という歴史現象の中核は、言うまでもなく世界史における近代植民帝国の解体と新秩序の形成である。ここから議論を始めよう。
山室信一は、「植民帝国」の形態をとった近代の帝国とは、「主権国家体系の下で国民国家の形態を採る本国と異民族・遠隔支配地域から成る複数の政治空間を統合していく統合形態」、すなわち「国民帝国」である(山室、2003:89)としている。法域の観点から見ると、このような複数の政治空間の統合体である「国民帝国」は、帝国の権力核である本国と、本国で制定された法律が必ずしも適応されない植民地法域とが、序列化されて統合された統合体である(同前:116)。
この議論に基づけば、歴史現象としての脱植民地化には、(Ⅰ)支配本国の主権下において、植民地が本国に対して全く異法域でなくなること、および(Ⅱ)「国民帝国」の権力核である本国からこれに従属していた植民地法域が本国から分離すること、の二つのケースがあるということになる。
(Ⅰ)は、支配本国が長期にわたって同化主義を取り、かつ被支配住民の側の対応において分離主義の戦略が優勢とならなかった場合に生じると言えるだろう。典型的なのは仏領アンティル諸島において「独立無き脱植民地化」(石塚道子、2004)が選び取られた事例であるが、このような事例は少ない[3]。東アジアに関しては、あえて言えば、近代以降の琉球の日本国への吸収もこのタイプに分類できるかも知れない[4]。
一方、一般に、脱植民地化と言えば、19世紀のラテンアメリカ諸国の独立に始まり、第一次世界大戦後のバルカン諸国の独立、第二次大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立に到る「植民地の独立」と一般に理解されているように、実際に生じた脱植民地化の事例はほとんどが(Ⅱ)の事例である。このタイプの事例について、山室の「国民帝国」概念に即して言えば、脱植民地化とは、「国民帝国の帝国性への拒絶であるとともに、国民国家性の受容による自立であり、それによる国民帝国の破壊であった」であると言える(同前:125)。換言すれば、この意味での脱植民地化は、互いに表裏一体である二つの側面を持つことになる。一つは、植民地の国民国家性の受容・獲得による国民帝国の破壊と国民国家体系参入の側面であり、もう一つは、帝国性を否定されたことによる国民帝国自身の国民国家への変容とその対外関係の再編の側面である。
後者は「脱帝国化」[5]と略称することが可能であるかも知れない。ただし、戦後の米国の場合のように、フォーマルな植民地の独立を促したからと言って、「帝国性」を放棄したわけではない、あるいは新たに帝国性を帯びるようになる、という事例も存在することに留意しておく必要がある。東アジアの脱植民地化にかかわる諸事象は、米国という「植民地無き帝国」(藤原帰一、1992)が主導する秩序の下で、それとの相互作用の中で生起していったのである。
(2)植民地遺制の克服と「魂の脱植民地化」
さらに、実際の歴史的脱植民地化過程において、かつての本国と旧植民地であった新興国民国家との関係の展開を見ると、上記(Ⅱ)の国家主権レベルでの政治・軍事的再編の過程(山室の用語法に拠るなら、「国民帝国」がその帝国性を放棄し、あるいは剥奪され、旧植民地・従属地域が国民国家性を獲得していく過程)には、一定のタイムラグを持って双方において植民地的遺制の克服がはかられていく過程(脱植民地化の第Ⅲ側面)が付随する。中核国民国家による異法域の支配・包摂は、植民地社会・文化・経済の全般にわたって深い影響を残し、またひるがえって支配本国のそれにも影響しており、それらの負の遺産としての植民地の社会、経済、文化に残された様々な傷痕は、植民帝国の政治的・軍事的解体により自動的に克服されるものではなく、脱植民地化・脱帝国化の過程にあるそれぞれの社会の新たな国民統合に重い課題を課すものである。台湾の歴史学者呉密察が、脱植民地化とは「払拭(植民地的残滓の)と創造(植民地社会の内発的、内生的な発展要素を発掘する)の同時的営為」であり、「自社会を主体とする一つの意味世界(国家)の創建」であるとしている(呉密察、1993:40)のは、この意味での植民地遺制の克服を射程に入れているからと思われる。
例えば、脱植民地化に伴い、支配本国と植民地の境界が多くの場合国境に変じ、これによって新たな人口の移動が生じることが多いが、旧支配国と新国民国家は、それぞれに新たに舞い戻った人口やそのまま居住を続ける人口を何らかの形で処遇しなければならないだろう。これ自身、重い課題であるが、それと同時に、主として旧植民地住民の被った人権や経済的損害に対する賠償・補償など、旧支配国と新国民国家の外交関係にも重い課題を課していくことになる。
このような負の遺産の克服が適時・適切に行われず、あるいは進展があってもその意義が双方において適切に伝わり理解されない場合には、植民地主義が残した傷痕は脱植民地化後にも精神的に再生産されて、時には双方の国民感情に、互いに他の存在を全否定してしまうようなマインドセットを生んでしまうこともあり得る。グローバル化と情報革命の進展は、かつての植民地支配国の社会と旧植民地の社会が直接に向き合うことを可能にするので、一方で相互理解のチャンスは増すが、同時にこのような傾向を助長してしまう。そうした場合には、「魂の脱植民地化」とも言うべき双方の社会の相互努力、「植民地体制下に特有な形で傷つけられた人間の魂を癒す過程」が必要とされることになる(安冨、2007)。
(3)経済的脱植民地化とそのディレンマ
植民地遺制とは、前項に述べたような社会的・文化的・心理的側面のみならず経済的側面を含む。というよりはむしろ、植民地の支配本国に対する従属やそれを可能ならしむべく利用ないし形成された植民地の経済構造などを指して使われる場合のほうが多いかも知れない。
経済的側面における脱植民地化とは、新たな国民国家となった旧植民地の経済がこのような従属的構造(植民地経済自身の、そして旧支配本国を初めとする外部経済との関係における)を克服して、自国民の福利厚生の向上を本旨とする経済発展の道に進むことである。
だが、よく指摘されているように、新たな国民国家はここにおいてディレンマに直面する。支配国からの政治的離脱と新国民国家の設立が、国民福利厚生の福祉向上のための経済発展に必要なリソースの最適配置を、直ちにまた自動的に実現するものでないことは言うまでもない。新興国民国家は、多くの場合、植民地的なリソースの配置から経済建設を出発させざるを得ず、資本や技術といった欠乏している資源を、旧支配国を含む外部に求めざるを得ない。だが、そこには、新たな従属、あるいは相も変わらぬ従属の危険が待っている。「経済的自立(化)と国際化のディレンマ」(冫余照彦、1993:104)である。このディレンマと向き合うことが脱植民地化の第Ⅳの側面であろう。
(4)先住民族運動と内部植民地主義の脱植民地化
ところで、今日の時点からこの世界史的脱植民地化過程を振り返ると、それが山室のいうように国民国家性の再拡大と再編であったが故に、脱植民地化過程において、あるいはそれに踵を接して、新たな脱植民地化問題ともいうべき問題が生じていることを知ることができる。新たに国民国家となった地域における国民形成は容易ではなく、甚だしくは冷戦崩壊後の東欧におけるような「民族浄化」といった事態までが起こっているからである。
また、帝国性を放棄して再び国民国家に戻った諸国においても、あるいはその国民国家のそもそもの形成過程において、あるいは戦後の国民帝国から国民国家への再編の過程において、あるいはグローバリゼーションの影響を受けた大量かつ持続的な人口移動などによって、すでに「国民」になっていたはずの少数文化集団の「エスニック・リバイバル」、先住民族の「第一民族」としての復権運動、さらには旧植民地・従属地域からの移民の増加・定着の問題が生じている。
こうした状況下で、すでに確立した国民国家においても、何らかの多文化主義的な政策によって国民国家を再編成していくことが多かれ少なかれ課題となっている。例えば、西欧などからの移民が主体となって形成され、少数先住民族をうちに抱える北米や大洋州諸国家においては、その「内部植民地主義」の歴史が生み出す先住民族運動によって反省が迫られている(謝世忠、1990;1994)。そして、場合によっては、国民国家として均一化したはずのその法域の中に、あえて一定程度の異法域を再び設定することで問題を解決することを迫られているのである。
このように見てくると、これらの先住民族運動は、その土地に西欧などからの移民より先に居住し独自の方式で統治を行っていた「第一民族」による脱植民地化の運動であると言える。こうした少数文化集団の異議申し立てへの応答もまた脱植民地化の一側面(第Ⅴ側面)を構成すると言えよう。韓国のように脱植民地化がこうした課題をほとんど内包しない事例はむしろ例外的であると言える。
言うまでもなく、脱植民地化には二種類の主体が存在する。旧植民地と旧支配本国である。この点に留意して、上記議論を整理すると、表1)のような概観が得られるだろう。
表1)脱植民地化の諸側面
主体 次元
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植民地 (狭義の脱植民地化)
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植民地支配国 (脱帝国化)
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Ⅰ)独立無き脱植民地化
| *平等な市民権付与による国民参入 | *国民への参入承認
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Ⅱ)植民地帝国の政治的軍事的解体
| *支配国からの独立・離脱(民族解放勢力による支配国との交渉/独立戦争の勝利) *国際社会での承認
| *植民地独立・離脱の容認 (民族解放勢力との交渉/独立反対戦争の敗北) *植民地支配権の剥奪(対外戦争における支配国の敗北) *旧植民地新国家の承認 |
Ⅲ)植民地遺制の克服
| *移動人口、国籍問題の処理 *新たな国家・国民建設 *旧支配国との新関係の構築
| *移動人口、国籍問題の処理 *国家・国民の再統合 *「帝国」的関係の清算・新独立国との関係の構築 |
Ⅳ)経済的脱植民地化
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*国民福祉向上本位の経済発展の実現 |
*平等互恵の経済関係の形成
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Ⅴ)内部植民地主義の脱植民地化 | *平等の要求から民族権の要求へ
| *民族権の承認とそれによる国家再編
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出所)若林正丈作成
3.遅延・希釈、代行、NIES的発展--冷戦下日本植民帝国脱植民地化の諸相
(1)「傷ついた“”」、「傷ついた」--戦後占領と脱植民地化主体形成の挫折
日本植民帝国の政治的軍事的解体は、第二次大戦における日本の敗北を契機とした。すなわち、戦勝者たる連合国軍による帝国各地における日本軍降伏の接受と日本権力機関や資産の接収ばかりでなく、何らかの形で軍政ないしそれに準ずる連合国軍の占領支配という過程を経て行われたのである。日本本国は米軍による間接軍政、沖縄そして北緯38度線以南の朝鮮半島は米軍の直接軍政が敷かれ、同以北の朝鮮半島および旧満州はソ連軍の軍政下に入った[6]。
台湾(台湾島と澎湖諸島)では、カイロ宣言によりその中華民国返還が謳われ、日本が受諾したポツダム宣言にその遵守が規定されていたことを背景として、日本軍の降伏接受・日本権力機関と資産の接収と台湾の中華民国編入(台湾省)とが同時に行われた。これに見合って、蒋介石中国軍区総司令の命により在台湾日本軍の降伏接受にあたった陳儀台湾警備総司令は、台湾省行政長官を兼ねて、台湾の中華民国編入とその後の施政にあたったのであった。
「傷ついた“”」とは、歴史家文京洙が、その『韓国現代史』で日本の敗戦から朝鮮戦争休戦までの「解放八年」の歴史を論じた一章に与えた表題である。朝鮮では日本の敗戦の報が伝わるとともに各地で自発的な権力組織作りが進んだが、南の米軍政、北のソ連「民生部」の権力掌握とともに、「建国準備会」、「人民委員会」、「人民共和国」といったこれらの自発的胎動を反映した組織は圧殺された。南についていえば、その過程で、植民地期の行政・警察機構や旧親日派が息を吹き返し、1946年の「十月抗争」、48年の「済州島四・三事件」など以後の韓国社会に深い傷痕を残す衝突と国家テロルが発生した。そして、朝鮮民族自身の内部対立と次第に強まった米ソ対立の相乗作用の中で、南北に別々の国家が樹立され、北の金日成が、アジアの冷戦体制構築において米国が見せた一瞬の隙をついて三八度線を南下して朝鮮戦争が勃発、米、中それぞれの兵力投入を経て、朝鮮半島の分断が固定化していったのであった。
連合国軍による降伏接受・接収・占領が同時に中華民国編入でもあった台湾の1945年は「」と呼ばれた。台湾人は「光復」を歓呼して迎えたが、その歓喜はすぐにしぼんだ。鄭永信によれば、南朝鮮では、米軍政のあり方を見て、早い時期から日本人がアメリカ人に代わっただけとの反感が示されていたし、米軍政には、当時の朝鮮人を「解放民族」であると同時に「敵国民」ともみなす立場が混在していた(鄭永信、2006:116-117頁)。台湾でもこれとパラレルな状況が出現した。陳儀台湾省行政長官は、日本植民地統治前半の「武官総督」のように台湾の行政権と軍権を一手に握る巨大な権限を持ち、行政長官公署を大陸からつれてきた幕僚などで固め、いまや中華民国台湾省の「本省人」と呼ばれるようになった台湾人の参与を排除して日本機関・資産の接収を進めた。陳儀政府下の混乱が深まり、台湾人の歓喜が失望、憤懣へと変わるにつれ、台湾行政長官公署は「新総督府」と目されるようになった。また陳儀らが、省行政への台湾人の参加要求を台湾人は日本の植民地支配下で「奴隷化」されているから訓練が必要としてはねつけ、著しく台湾人の感情を傷つけたことも、またよく知られている(陳翠蓮、2003)。陳儀の政府も、台湾人を直ちに公民として「中華民国」に編入したものの、ついこの間まで兵火を交えた敵国の支配下にあった住民を信用しきれなかったといえよう。
戦後社会に不可避の経済・社会的混乱とこうした相互不信や反感が渦巻く中で、47年台湾現代史最大の悲劇である二・二八事件が勃発してしまった。蒋介石が陳儀の求めに応じて大陸から急派した軍の鎮圧活動などで1.8万から2.8万の死者が出た。何義麟が「台湾人の自主的脱植民地化の試み」と呼ぶ様々な動き(「延平大学」の開設、大公公司の設立、台湾文化協進会の結成)も夭折を余儀なくされた(何義麟、2003:126-150頁)。台湾の脱植民地化の形であるはずの「光復」もまた「傷ついた」となってしまったのである。
こうした経緯で、日本植民帝国の脱帝国化・脱植民地化のとば口において、戦争に敗北したかつての植民地支配者も、戦勝国民であるはずの、あるいは「解放民族」であるはずの被支配者も、直接の十全の当事者とはなり得なかったのであった。朝鮮民族主義者の金九が日本の敗北の報に接した時「嬉しいニュースというよりは、天が崩れるような感じ」がして、「われわれがこの戦争でなんの役割も果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなるだろうということ」が心配だったとの述懐を残していることはよく知られている(文京洙、2006:38)。金九の「心配」は、このことへの不吉な予感を語ったものであったと言えよう。脱植民地化のスタートが非当事者による占領の形となってしまう中で、脱植民地化の主体形成は挫折したのである。
(2)遅延し、希釈され、代行された脱植民地化の植民地性
そして、金九の「心配」は現実となった。数年後これらの占領が解かれる時には、東西冷戦の秩序の中に、それぞれの地政学的価値に沿った役割を振られてきつく組み込まれていた。新たな覇者米国との関係でおおざっぱに言えば、日本はアジアの冷戦における「後方基地国家」、韓国と台湾の「中華民国」は「前哨基地国家」の役割を振られたといえる。このことは、その後の東アジアの脱植民地化、特にその植民地遺制の克服(第Ⅲ側面)のあり方に、大きな影響を与えた。
東西冷戦下の韓国や台湾における国民形成は、軍事的緊張下で政治的自由が制限される環境の中で、強い「反共」のバイアスがかかったものとなった。韓国に関しては、民主化前の時期では「反共を国是とする一糸乱れぬ『国民』化こそが至上命題であった」(文京洙、2006:70)。「反共」を「反共復国」に置き換えれば、台湾もまた同様であった。こうした状況下では、植民地遺制の克服による主体性の回復、呉密察の言葉で言えば「払拭と創造の同時的営為」による「意味世界の創建」の過程は歪められ、脱植民地化の第三側面の実現は遅延し、希釈されたものとなった。かく遅延し希釈された脱植民地化は、傷痕の回復を希求する人びとにとっては事実上植民地支配の部分的継続であったともいえる。遅延し希釈された脱植民地化の植民地性である。
台湾の場合は、これに加えて「代行された脱植民地化の植民地性」が指摘されねばならない。東西冷戦の「前哨基地国家」として米国の庇護下に入った台湾の「中華民国」は、その「反共復国」の国是故に、実際の統治領域の大幅縮小にもかかわらず、全中国の統治を前提とした統治機構を維持し、その統治機構の枢要部分を蒋介石とともに台湾にやってきた大陸人(外省人)エリートが独占した。そして、かれらのヴァージョンの中国ナショナリズム(国民党政権の公定中国ナショナリズム)に基づいて上からの国民形成が強力に推し進められた。日本語(台湾人にとっての第一の「国語」)は中国国語(第二の国語)によって押しのけられ、そして、日本色の払拭が進むと今度は「方言」、すなわち本省人にっての母語に照準が合わされていった。台湾社会のそれぞれのエスニック・グループ(「族群」)の母語や「台湾的なるもの」は、中国国語と中華のハイカルチャーの下位に位置づけられるものとして貶められた。
国民党政権は、先住民族も含めて、新たに「中華民国国民」になった台湾住民に日本植民地政権が付与したことの無かった参政権を賦与した。これは民主的権利の付与による国民形成という意味で脱植民地化措置でもあったと言える。しかし、与えられた権利は、七〇年代初めまで地方公職選挙への参政権に過ぎず、また、蒋介石が長男蒋経国に統率させた政治警察の監視・抑圧下の、政治的自由が欠如した状況での参政権にすぎなかった[7]。本省人社会エリートの地方公職の獲得は、国家権力の枢要部分が外省人エリートに独占されていた以上、かれらを地方政治エリートに押し上げたに過ぎず、政治エリートの構成には明白なエスニックな二重構造が形成された。
統治エリートから見れば、自身の「中華民族」観に沿ったこれらの国民統合政策こそが台湾の脱植民地化に他ならなかった。しかし、「反共復国」を堅持し強力な政治警察を抱えた蒋介石政権の進める脱植民地化は、実際に植民地統治を受けた台湾人からすれば、「代行された脱植民地化」であり、そこに生じた抑圧は政治エリートの二重構造や「台湾的なるもの」からの価値剥奪のような不平等な構造を伴っていたから、一種の植民地性があったと言えよう。少なくとも、本省人の側からはそのように感得される場合が多かったのである。
ここで韓国と台湾とを対比してみれば、韓国では、統治機構を担った人員の多くが植民地国家(朝鮮総督府)の人員であったことが、民主化後に「親日派」処理がとげとげしい争点として浮上する背景をなしているが、台湾の場合は、戦後国家の主たる担い手と植民地国家(台湾総督府)との人員の面での連続性の無い「遷占者国家」[8]として戦後国家が確立されたため、このような問題は生じない代わりに、「代行された脱植民地化の植民地性」の問題が生じてくるのである。なお、表2)に、台湾と韓国の脱植民地化にかかわる政治、経済的諸事項を対比してみた(台湾の事例が韓国と質的に異なると思われるポイントを、斜体字で示した)。
表2) 脱植民地化:朝鮮(韓国)と台湾
| 朝 鮮 | 台 湾 |
植民地化前の地政学的位置
| *単一王朝 *清帝国の朝貢国 | *清帝国直轄の国内植民地
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植民地支配からの離脱
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*南北分割占領(南:米軍政;北:ソ連軍政) |
*中国戦区司令官による降伏受理・中華民国への編入(台湾省) |
植民地遺制の克服 ・新たな国家・国民建設
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*南北分断国家の成立と冷戦体制への組込み *朝鮮戦争 *分断・対峙の継続 *反日ナショナリズムによる日本色の除去と国民統合 *「親日派」未清算の国家建設
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*中国内戦と冷戦との結合 *台湾海峡を隔てた二つの中国政府の対峙 *第一次、第二次台湾海峡危機 *国民党公定ナショナリズムによる日本色の排除と国民統合 (遷占者国家の確立と代行的脱 植民地化/「上からの中国化」) |
・旧支配国との新関係の構築と国際的地位
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*冷戦体制への組み込み:[南]日韓基本条約 *[南]冷戦前哨基地国家:米韓相互防衛条約 *国連南北同時加盟 |
*冷戦体制への組み込み:日華平和条約→日中共同声明 *冷戦前哨基地国家:米華相互防衛援助条約→台湾関係法 *国連安保理常任理事国→国連追放 |
・経済的自立
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*[南]植民地遺制の「換骨奪胎」としてのNIES的発展
|
*植民地遺制の「換骨奪胎」としてのNIES的発展
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・政治的民主化
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*[南]軍事官僚的権威主義体制→民主体制
|
*党国体制→民主体制 *国民党公定ナショナリズムの衰退、台湾ナショナリズムの台頭 *台湾化=遷占者国家の解体/再編 |
多文化主義・「第一民族」問題
|
*不在
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*多文化主義的国民統合政策の始 動、台湾原住民族運動 |
出所)若林正丈作成
言うまでもなく、脱植民地化は、旧植民地、旧支配国、そして両者を取り囲む国際環境の相互作用として進行する。ここで、東アジアにおける脱植民地化が「遅延し希釈された」ものとなっていったことに関する戦後日本側の事情を確認する必要がある。
連合国による占領解除とともに、日本のアジア諸国との新たな外交関係の樹立が行われていったが、これらが米国に意向をうけて、アジアの冷戦における「後方基地国家」としての日本の役割を阻害しないという制約のもとで行われていったこと、中国の内戦が台湾海峡で膠着し、朝鮮半島に分断国家が誕生して、それぞれ冷戦の陣営を分かって対峙していたことは、植民地遺制の克服において日本の保守勢力がその負担をいわば値切ることを比較的に容易にしたといえる。
また、戦後日本固有の事情もまたこうした保守勢力の対応の背景を為していると思われる。三谷太一郎が指摘するように、敗戦国としての日本にとっては植民帝国の政治的・軍事的解体は「自明の所与」であり、この過程に全く関与することのなかった日本にとって「脱植民地化はそれ自体としては他国の問題であり、日本にとって自らの深刻な体験として受けとめられたことはなかった」(三谷、1993:vii)。また、「日本の場合には植民地化における軍事性の優越が本国の非軍事化を直ちに脱植民地化と同一視させ、そのことによって、一方では脱植民地化を容易に受け入れさせると共に、他方では非軍事化と次元の異なる脱植民地化固有の問題を長きにわたって看過させてきた」ともいえる(同前:x)。こうした事情が、東西冷戦の東アジア波及とともに、冷戦の必要により合わせた形での地域再編をはかる米国のアジア政策の展開と寄り添う形で、植民地遺制の相互的な克服(三谷の言う「非軍事化と次元の異なる脱植民地化固有の問題」)の遅延を生じさせ希釈させていったといえる。
これとともに、日本人の国民としての自己イメージも急速に転換した。「域内で最も優れた民族である大和民族がそれへの同化過程にある従属的諸民族を従えている」という、ついこの間まで喧伝された権威主義的多民族国民観は一夕のうちに忘却され、近代国家形成過程で同化した少数民族(例:アイヌ民族)や地域(沖縄)の存在、帝国形成過程で中核国民国家内に定住することになった旧植民地民族の存在(在日朝鮮・韓国人)にもかかわらず、日本人=「単一民族」の観点が急速かつ広範に受け入れられることとなった。
だが、冷戦の終焉とともに各国にのしかかっていた重しがとれると、遅延・凍結されていたが植民地支配の負の遺産の克服問題が、戦争被害の問題とともに噴出してくることとなった。主な問題を列挙する。
*近代史の歴史認識のギャップ:教科書問題、政治家の植民地支配肯定発言、首相・閣僚の靖国神社参拝問題など。
*植民地支配・占領支配の被害補償の問題:台湾人元日本軍兵士への補償、日本政府の「確定債務」の支払い問題、「従軍慰安婦」補償の問題、戦時期強制連行補償の問題、毒ガス処理および被害補償問題など。
これらの問題の幾つかは、政府間の交渉を経て、また個人が提起し市民団体などが支援する訴訟などによって対応が進展するものもあるが、その一方で、日本及び各国内部のアイデンティティ・ポリティックスからの負荷がかかってしまう場合もある。こうした場合、ナショナルな感情が、ポスト冷戦期の情報革命によって普及したメディアに載ってポピュリスティックに煽られやすく、先にも触れたように相互に精神的傷痕を再生産しがちである。「魂の脱植民地化」という課題を意識せざるを得ない所以である。
(3)NIES的発展--「開発独裁」の脱植民地化
民主化前の韓国、台湾の権威主義的政治体制は、経済発展との関係ではよく「開発独裁」と称される。この「開発独裁」下に60年代からの持続的経済成長、いわゆる「NIES的発展」が実現した。
冫余照彦は、NIES的発展をもたらした国際構造は、アメリカを基軸的役割の担い手(そこから様々な民生応用可能な技術が派生するところの基礎研究・基礎技術開発の担い手、最終消費製品の巨大な吸収者)、日本を中間的役割の担い手(基礎技術の民生応用化の担い手、既用セコハン技術の提供者)とし、台湾、韓国などを周辺的担い手(低賃金労働の提供者、公害を生みやすいセコハン技術の吸収者、最終消費の生産・輸出の担い手)とする「成長の」であり、歴史的にはこの「」は、かつての日本植民帝国内分業にその雛形があるとしている(冫余照彦、前掲:113-117頁)。
この「」は、戦後東アジア冷戦においてアメリカが日本・韓国・台湾などに割り振った安保体制上の分業体制に見合うものであり、韓国、台湾においてそれぞれの経緯で樹立された権威主義的政治体制がそれを政治的に可能にした。「開発独裁」と称される所以である。「開発独裁」は、農地改革を経て形成された小農経済から創出された低賃金層を維持し、かつ公害反対運動を事前に封じ込めることによって、「」における地位確保の条件を形成したのである。これらは、独裁政権にとっては米国の政治的支持や軍事援助をはじめ自己の体制維持のための物的基礎を獲得していく、あるいは引き続き獲得するための必要措置でもあった。この構造の下で実現される経済成長は、またひるがえって独裁政権の正統性の重要な一部を構成した。前記のように、この「」における「開発独裁」下の経済も「経済的自立(化)と国際化のディレンマ」の下にあった。だが、こうした意味で「」における地位を危うくするような「『脱植民地化』は『開発独裁』にとって論外であった」のである(同前:114頁)。
もちろん、自立工業化が困難であったように、世界市場に身を委ねた開発途上国の工業化が成功するとは限らなかった。その意味では、「資本主義世界の懐深く飛び込むことでその内部での地位を上昇させようとするのは、いわば紙一重の選択であった」と言える(文京洙、前掲:107頁)。しかし、韓国、台湾はこれに成功した。韓国、台湾の経済発展が1970年代末にはNICSとして世界的に注目されるようになり、さらにその後対外債務過重にあえいだメキシコ、ブラジルが脱落する中で80年代後半にはアジアNIESとして再定義されるようになった。こうした変遷が示すように、60年代からの持続的経済成長は、両地の世界経済におけるポジションの上昇に帰結したのであった。冫余照彦の表現を借りれば「植民地遺制の換骨奪胎」が成し遂げられたと言えるのである(氵余、前掲:122頁)。
すなわち、戦後農地改革による植民地地主制解体を経て形成された小農経済からの脱皮、日本植民帝国内分業から米国「植民地無き帝国」内分業への転化の上に工業化が成し遂げられ、そして80年代後半以降は資本・技術輸出国へのポジションの上昇、政治的民主化と並行して進んだ制度整備による福祉国家化などの成果を得た。東アジアの民主化については、持続的経済成長が中間層を厚くしその上に民主化が花開くという中間層による民主化論があるが、もちろん中間層の形成が民主化を必然のものとするとは言えない。しかし、それが民主化と民主体制の持続にとって、そうでない場合と比べてより良好な環境を提供するとは言えるであろう。次ぎに触れるように、民主化は「遅延・希釈され代行された脱植民地化の植民地性」の克服の主体形成に有利に働く。「開発独裁」の脱植民地化というパラドックスである。
4.民主化と脱植民地化主体の再形成--結びに代えて
韓国や台湾の現代史において、「開発独裁」下のNIES的発展が、経済の植民地的構造からの逆説的な脱出を「紙一重」のところで可能にしたとすれば、それに続く政治的民主化の進行は、他者による占領-冷戦体制下の抑圧的反共権威主義国家の確立の過程で挫折した脱植民地化主体形成過程の復活を促す意義を持ったと言える。
このことを端的に示すのが、上記の過程で発生した韓国済州島四・三事件、台湾二・二八事件や「白色テロ」などの衝突・流血事件の見直しが、民主化とともに可能となったことであろう。権威主義体制下では、公共の場でこれらの事件を語ることさえ不可能であった。この点を見るために、韓国に関して済州島四・三事件の、台湾に関しては二・二八事件見直しのプロセスのおおよその展開を比較対照すると、いずれも事件発生から40年後ほどを経た、政治体制の民主化の方向が明確になり始めた時期に、公然たる追悼と見直しの動きが民間に生まれ、ついで民主化の進展とともに政府部門の対応が促されて法制度の整備が進み、関係者の復権や被害の補償が行われていったことが見て取れる。民主化は、韓国についての文京洙の言を引けば、「分断体制のもとで周縁化された人びとの復権を果たす過程でもあった」(文京洙、前掲:228頁)。民主化が民主化を超えた歴史的内実を有してしまうのは、台湾も同様である。
韓国では、済州島四・三事件の見直しには、1980年の光州事件の見直しが先行していた。金大中という光州出身の大統領の出現とも相まって、全斗煥ら「新軍部」政権下で「内乱陰謀」の地として汚名化された光州の復権が進んだのであった。盧武鉉政権下では、さらに、民族の過去に対して幅広い見直しが求められ、2004年には「日帝強占下親日反民族行為真相究明特別法」が、翌年には「真実・和解のための過去史整理基本法」が制定されている(同前、215-216頁)。
台湾でも二・二八事件の見直し開始に少し遅れて、50年代を中心に荒れ狂った「白色テロ」(共産党員狩り)[9]の犠牲者の復権と補償の要求が起こり、98年には「戒厳時期不当反乱及匪諜審判案件補償条例」が制定された。2001年には同法が修正されて、1979年の美麗島事件など近い時期の政治的弾圧事件にも適用され、復権と補償が進められた。
台湾では、公教育が「八年の抗日戦争を闘い抜いた」経験を政権の歴史的正統性の重要な根拠の一つとする中国国民党の公定ナショナリズムに基づいていたため、日本に関しては批判的な内容の教育が行われていたが、その一方で台湾人自身の植民地被支配経験に基づく日本経験は、権威主義体制下ではほとんど言説化されてこなかった。しかし、民主化後は、それまで政治的にセンシティヴな領域として研究が進んでいなかった日本植民地統治期の台湾史研究にも多くの学者が参入するようになり、また巷間でも台湾本省人の被殖民経験に基づく日本観が公然と語られるようになった(黄智慧、2004)。これらの新たな日本観は、台湾史評価に反映して、植民地統治期に全面的にマイナス評価を行うそれまでの反日史観とは趣を異にして、植民地統治期の台湾人の抵抗の歴史も含めて、植民地統治下での社会・経済の近代化の進展を肯定する見方が教科書にも反映するようになり、台湾内外の中国ナショナリストの反発を呼んだことがある(Wang, 2005)。
これらの動向は「反日」か「親日」かとの尺度で見れば確かに、韓国とは方向を異にしているように見えるが、台湾戦後の「代行された脱植民地化の植民地性」に対する揺り戻しであると考えれば、「遅延・希釈」されてきた脱植民地化の主体性の、民主化を契機とする再構築の動きとして、同じ歴史の位相に立つものであると見ることができる。
ただ、台湾の事例では、これに加えて脱植民地化運動としての先住民族運動の位相が有ることを見ておかねばならない。
近年「出土」した台湾現代史の史料によれば、戦後初期すでに先住民族のエリート(台湾総督府が養成した「先覚者」だった)が、先住民族としてのアイデンティティーと「土地」と「自治」への渇望を口にしていた。タイヤル族のロシン・ワタンやツォウ族のウォグ・ヤタウユガナ等の事例である[10]。このことは、「光復」という形態を取った台湾の脱植民地化のとば口にあって、台湾の先住民族もまたその「第一民族」としての脱植民地化の胎動があったことを示しているだろう。だが、その胎動は平地の場合と同じように胎動のままに終わってしまった。ロシン・ワタンやウォグ・ヤタウユガナ等には二・二八事件後に本格的な地下活動を始めた共産党員が接触してきていた。1952年国民党当局はこれを理由に両名を「高山族共産党スパイ事件」に関与しているとして逮捕し、54年に処刑した。これは、49年末から本格化し50年代を通して荒れ狂った国民党政権の「白色テロ」の一コマであった。先住民族の脱植民地化の胎動も、二・二八事件に踵を接した国家暴力の中で、先住民族「先覚者」の肉体とともに埋もれてしまったのである。
以後、国民党政権は、一方で一定の政治的権利を先住民にも賦与しつつ、他方で日本植民地主義よりも徹底した一元主義的同化主義的文化・教育政策を実行し、土地に関しては台湾総督府の「保留地制度」を引き継ぎつつ、保護と開発の間を揺れ動きながら、結局は平地資本の浸透に道を開き、内部植民地主義的状況の深化に手を貸した。
1990年代ようやくにして名誉回復(93年10月遺骨を正式に埋葬、故郷に銅像建立)なったロシン・ワタンの長男林茂成は、訪ねてきたタイヤル族の作家ワリス・ノカンに対し、「これからは、こんなことが二度と起こらないことを願っている。必要なのは民主主義であって、権力で人を圧迫すべきじゃない」(ワリス・ノカン、2003:203)と述べている。ここで台湾先住民族運動の展開を具体的に述べていく余裕はないが、1983年5月台湾大学在学中の先住民学生が手書きのパンフレットを配って台湾先住民族「民族滅亡の危機への先住民族の自覚」を訴えて以後、晩年の蒋経国による政治的自由化措置、李登輝による「憲政改革」(中華民国憲法の修正による民主制度の設置)の推進など、「民主主義が台湾のモットー[と]な」る(注7参照)政治条件を得て、ロシン・ワタンやウォグ・ヤタウユガナの夢が伏流していてそれが蘇ったかのように、「台湾原住民族運動」が展開された。今のところ「土地の奪還」「民族自治」の目標実現にはまだ遠いものの、運動の要求する「台湾原住民族」の自称や発展権の要求の憲法への書き込み、また中央政府における先住民族専管機関(行政院原住民族委員会)設立など、比較的大きな成果を挙げていると言える(若林、2007[近刊])。
このように、1980年代後半以降に実現していった台湾、韓国における民主化は、戦後の脱植民地化のとば口で挫折した、あるいは歪められた脱植民地化主体の再形成という歴史的意義をも有したと言うことができる。それは、台湾の先住民族というマイノリティの動向を視野に入れてみるといっそう鮮明に浮かび上がるのだと言えよう。
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[2]管見に拠れば、脱植民地化をキーワードにした戦後日本研究の学術書は、三谷太一郎編(1993)が唯一のもののようである。ただ、最近、これと重なる問題領域を「継続する植民地主義」のタームで捉えようとする中野敏男等の研究が出ている(中野敏男他編、2005年;中野敏男他編、2006年)。また、「脱植民地化」の概念とともに研究されるべき領域として、「脱植民地化と戦後日本の国民国家再編成」といった問題領域があり得る。尹健次(1995)の問題提起的論文の他、歴史的実証を伴う研究は始まったばかりである(例えば、浅野、2004)。
[3] マルティニク、グアドループ、ギアナなどのフランス海外県化。但し、これらの地域でもその後分離独立を求める動きは存在する(平野千果子、2002:312-313頁)。
[4] 呉叡人は、日本植民帝国の統合イデオロギーを国民化植民地主義(nationalizing colonialism)と性格付け、日本植民帝国においては、新たに主権下に入れた地域を、中枢のエリートがその日本的オリエンタリズムの尺度に従って判定する「民度」に従って日本本国の下に階統的に位置づけ、同化の進展の度合いに応じて漸進的に国民化していくという示差的編入(differential incorporation)の原理による統合が進められたとする(Wu, Rwei-Ren, 2003:Chap.2)。このような日本植民帝国の統合イデオロギーの見通しの中では、台湾や朝鮮もやがては、(Ⅰ)のタイプで脱植民地化してくことになるが、これらの地域では沖縄のように、被支配住民のエリートが「独立無き脱植民地化」の戦略を採用することはなかったのである。
[5] この用語は、駒込武の造語「脱帝国主義化」(駒込、2001:192)より示唆を得ている。
[6] なお、戦勝者による占領の形で始まった日本植民帝国の脱植民地化のもう一つの特色は、連合軍が日本人植民者の旧植民地への残留を認めなかったため、脱植民地化後の社会にかつての植民者が集団として居残ることがなかったことであろう。
[7] 与えられた権利は回収されてしまうこともあり得る。ただ、台湾現代史の実際においては、一旦与えられた権利はその後拡大こそすれ、回収することはできなかったのである。
[8]遷占者国家(settler state)とは、(イ)ある社会における移住者集団の土着集団に対する優越性、および(ロ)その社会の上に立つ国家が出身母国から少なくとも事実上独立していること、この二つの条件が同時に満たされる国家である(Weitzer,1990)。前述のように、戦後台湾国家については、このうち(ロ)が、中国内戦に起源を持ち、冷戦戦略に基づく米国の政治経済的・軍事的支持によって担保されていたことは言うまでもない。(イ)についてみると、40年代末から50年代前半にかけて台湾に移住した外省人は約100万人であったが、この集団のエリートが政府、国民党、軍、政治警察、さらには公営企業の経営陣、大学、新聞などの文化・報道・言論機関を掌握した。戦後台湾国家の性格に関しては、とりあえず若林正丈(2002)を参照のこと。遷占者国家という訳語は、台湾の社会学者張茂桂(1993)による中国語訳を拝借している。
[9] この国家暴力により少なくとも5000名が命を落とし、約8000名が10年以上の懲役刑を受けた。最後の50年代政治犯が出獄したのは84年12月のことであった。原住民族で「白色テロ」で逮捕されたものは少なくとも45名いるという(ワリス・ノカン、前掲:175;178)
[10] 1947年6月、桃園県角板郷(現復興郷)のタイヤル族住民のリーダーであるロシン・ワタン(日本名日野三郎)は、戦後「回復」した漢族名林瑞昌で、「日本領有時原社居住者名簿及ビ地図各一枚」を添えて「台北県海山区山峡鎮大豹社原社復帰陳情書」を当局に提出して故地への復帰を訴えた。曰く、「我々台湾族ハ台湾ノ原住民族デアリ、往昔ハ平地ニ居住シテ居リマシタ事ハ、歴史ニヨリ明白デアリマス」「……日本統治ノ桎梏下ヲ脱シ自由平等ノ身ニ還リ、台湾ガ光復シ、日本ノ為奥地ニ追放サレタ我々モ墳墓ノ地ニ復帰シ、祖父ノ霊ヲ祭祀シ慰メルノガ当然ノ理デアリ、光復シタ以上ハ我々モ故郷ニ光復スル喜ビニ浴スルノガ明々白々ノ理デアラウト思イマス。左ナクバ祖国ニ光復シタ喜ビ何処ニアロウ?」と(ワリス・ノカン、2003年:206頁)。また、これより先、同年3月、ツォウ族のリーダーで当時呉鳳郷の郷長であったウォグ・ヤタウユガナ(戦後の漢族名高一生)は「矢多一生」の日本名で、先住民族各族エリートに向けて南投県霧社で「自治」についての討論を行うことを呼びかける「案内状」を書き、その中で「自治」の構想を掲げていた。曰く、「幸いに民主主義が台湾のモットー[と]なりましたこの際民主主義的に高山全民の幸福のために吾々高山族が一致団結して平和的交渉の裡に高山族が本当に主人公であると言う区域を設定して これを区とし然も此の区(高山区署兼警察局)は県長及長官には隷属するも其れ以外に対しては一切自主的に山地区域の自治建設をなす様な本当の高山族平和境を建設致し度いと思ひます。」([ ]内は引用者が付加、空白は原文のまま)と(中央研究院近代史研究所編印、1993:286)。