台湾アイデンティティと「中華民国」の習合現象?——蔡英文総統の双十節演説から
2021年 10月 10日
以上、この補論では、中華民国台湾化が「中華民国」という特異な国民国家の再編の意義を有したとの歴史遠望的な議論を行った上で、その国家再編については、憲法のテキストにおける中国国家の法理を振り捨てることができない、つまり中華民国台湾化の完了ができない情況にあるが、その国民再編は進展した、すなわち、中国の影響力メカニズムに政治・経済的に揺さぶられる情況下でも、台湾住民のナショナル・アイデンティティ分布における「台湾選択肢」(政治大学調査の「台湾人」「独立傾向」「民進党」支持、呉乃徳調査の「台湾ナショナル・アイデンティティ」)の成長は続き、「台湾ネーション」とまでは言い切れなくても、前記のような「台湾政治共同体帰属意識」は、すでに支配的なものになっていることが観察できた。
蔡英文現総統は、2018年中華民国「国慶節」(双十節、10月10日)で、台湾の政治体の呼び名として「中華民国台湾」という言葉を初めて用い、2019年の国慶節や総統選挙戦でも、2020年の総統就任演説でも使っている。2018年の演説では「共同体としての台湾」という語も、またもちろん単独語としての中華民国の語も用いられている。
この「中華民国台湾」の語に蔡英文も民進党も今のところ(2021年2月初旬)いかなる解釈も加えてはいない。しかし、「中華民国台湾」は「中華民国は台湾である(中華民国就是台湾)」とも解釈できる。本補論の議論から敢えて敷衍するならば、この語は、上述のように支配的となった台湾政治共同体帰属意識という台湾住民の自己理解(つまりはナショナル・アイデンティティ)に、中国の影響力メカニズムとポピュリズム政治の洗礼を受けて再選された蔡英文が与えた新しい名称であると見なすこともできる。
民主化の一応の完成(本書にいう「憲政改革」の第一段階)という政治的正統性をひっさげて李登輝が訪米してコーネル大学で高唱したのは「中華民国在台湾」(中華民国は台湾に在る/台湾に在る中華民国)であった。「中華民国在台湾」と「中華民国台湾」とは、それぞれ民主選挙で選出された台湾の総統が、住民の団結を呼びかけるためのナショナル・アイデンティティの最大公約数的コンセンサスとして提起した用語であると見なせるだろう。それゆえ、この「中華民国在台湾」から「中華民国台湾」への変化は、この間の国民再編の進展を象徴するものと見ることができよう。
逆の角度から見ると、それは中華民国の存在が中華民国台湾化の一定の進展を経て台湾の地において再正統化されたこと示してもいるだろう。かつて「中華民国」は、中国国民党のセルフメイドの中国正統国家の体現者としての正統性によって担保されていたが、現今の中華民国は憲法に基づく人民主権の実践により正統化されている。長期戒厳令解除以前の「白色テロ」の時代、海外の台湾独立派や台湾内のオポジション人士が抱いた「中華民国」への強い違和感は、民主化や新しい世代の登場を経て、もはやかなりの部分の人々にとって過去のものとなりつつあるとともに、「中華民国」忠誠派をかつての敵であったもう一つの中国のほうに押しやっている。かくして、中華民国台湾化は「中華民国」を二つに分化させているとも言えよう。一つは住民のナショナルな自己理解の主流となっている「台湾政治共同体帰属意識」と「習合現象(syncretism)」を起こしている中華民国、もう一つは中国の影響力メカニズムに支えられ中華人民共和国との境界をますます不分明にしている中華民国である。