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歴史の中の七二年体制 台湾日本研究院シンポジウム基調講演原稿

昨日(2022年4月22日)、台湾日本研究院主催のシンポジウムに招請されて基調講演(日本語)を行った。この数年進めている「台湾という来歴」論の観点を絡めて、自身の七二年体制論の再検討を試みたものである。要請された50分の内容になるように日本語原稿を作ったのだが、会議での発言はPPTのみとのことで、原稿は通訳に渡されたのみであったようだ。せっかくなので、このブログで、原稿を公開しておきたい。
並み居る「現状分析家」の議論の前では、あまりに「火薬臭」が欠けたものであったかもしれない。ただ、シンポでの議論を側聞した限り、「七二年体制は今や『名存實亡』」とした論断は間違ってはいなかったようだ。とはいえ、専門家の議論から学んだのは、米中はそれぞれの利益から「名」を残しながら、また「名」を盾に使いながら、七二年体制からの離脱ゲームを始めているということであった。完全に離脱するとどんなリスクが待っているかわからない。だから「名」を残すのである。台湾海峡に、いな東アジア全体に、長い、コンティンジェンシーに満ちた過渡期が始まったのだろう。「台湾島の地政学の前景化」状態は続く。想像力を全開にしている必要がある。
また、この他に、「台湾という来歴」論の立場からの成果としては、「台湾は何処にあるか」と「台湾な何であるか」というクエスチョンから出発して「台湾という来歴」のコンテキストを語る、という語り方が結構有効かもしれないという感触を得たことであった。

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台灣日本研究院國際論壇 21世紀的臺日關係與1972體制的新思維 20220422 online

歴史の中の七二年体制

——台湾島の地政学と地域的政治主体性——

若林正丈(早稲田大学台湾研究所顧問)

1.はじめに

2.台湾は何処にあるか?——諸帝国の周縁とその地政学

3.ひび割れる米中妥協と国際秩序——七二年体制の現在

4.台湾とは何であるか?——中華民国台湾化の現在

5.結び

1.はじめに

 1972221日、時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンが北京空港に降り立った。米中それぞれの対ソ戦略的思惑の一致から展開することになった「米中接近」の政治劇の正式開幕を告げる光景であり、後智恵からすれば、それは同時に台湾をめぐる「七二年体制」の形成の始まりを象徴する光景でもあった。

 その半世紀後の202224日、北京冬季オリンピック開会式の日に北京に来訪したのは、米大統領ジョー・バイデンではなく、ロシア大統領ウラジミール・プーチンであった。ロシアは、半世紀前には米中双方にとっての戦略上の対抗相手だったソ連の後継国家である。プーチンは早速習近平中国国家主席と会談し、双方はNATOの「東方拡大」に反対し、両国の「無制限」の協力関係を進める旨の共同声明を発表した。

そのわずか三週間後、北京オリンピックが閉幕するやいなや、ロシア軍はウクライナへの侵攻を開始した。アメリカ、EU、や日本、濠州など民主体制の諸国はロシアに対する大規模な経済制裁で結束し、一方中国は、ウクライナの善戦やロシア軍の残虐行為が明らかになっても、ロシア側に立つ姿勢を崩さないでいる。アメリカ・ヨーロッパとロシアが厳しく対立する構図から得られる戦略的利益を手放すつもりはないものと考えられる。ロシア・中国陣営と欧米陣営の対抗と言う、あたかかもかつての東西冷戦のような対抗の構図が国際政治に再び登場しかつその様相を深めつつあるようである。

こうした情勢の中で、広い国際的視野の中で日台関係を論じようとする本シンポジウムの開催はまことに時宜を得たものであり、そのシンポジウムの基調講演に招請されたことは私にとってたいへん光栄である。

 私は2008年に『台湾の政治 中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会)と題する著作[1]を発表した。この著作で私は1970年代以降の台湾政治構造の変動を「中華民国台湾化」という概念で捉え、かつその政治構造変動の外部環境を捉える概括的概念として「七二年体制」の概念を提起した。おそらく、このことが、本シンポジウムに招かれた理由ではないかと忖度する。

「中華民国台湾化」とは、戦後の中華民国が堅持してきた(中華人民共和国に対抗する)正統中国国家の政治構造が、実際には台湾のみを統治しているという1949年以後の現実に沿ったものに変化していくことである[同書、13]

一方、「七二年体制」とは、「米中接近」をきっかけとして形成され定着していった、国際社会における台湾への対応へのアレンジメントの束を指す。周知のように、このアレンジメントにおいては、少数の国家を例外として、国際社会は中華人民共和国を中国の代表として迎え入れて外交関係を結び、台湾の中華民国とは断交して民間関係のみを維持するものとされた。1971年秋には、中国を代表しかつ国連安保理常任理事国であった台湾の中華民国は、ニクソン訪中に先立って、いち早く国際連合から追放され、中華人民共和国の代表が代わってその席に着いていた。そしてニクソン訪中の半年後、日本は中華人民共和国と「国交を回復」し台湾の中華民国と断交し、台湾とは民間関係のみを維持するものとした。

私の見解では、こうした台湾に関するアレンジメントの国際政治上の基盤は、対ソ共通の戦略利益に基づいて達成された、台湾問題についての米中間の相互妥協にあった。「相互妥協」とは、アメリカが要求する「(台湾問題の)平和解決原則」に対して、中国は台湾武力侵攻と社会主義化とを含意する「台湾解放」の旗を降ろしその代わりに「一国家二制度」の構築を柱とする「祖国の平和統一」政策を以て応え、一方のアメリカは、中国が要求する「一つの中国」原則の堅持に対して、中華人民共和国の中国を代表する国家としての国際的地位を認め、台湾の中華民国との外交関係を断絶し、台湾とのオフィシャルな関係を抑制するという「一つの中国」政策を以て応えたことを指す[2]。この七二年体制こそが中華民国台湾化が起動し展開していく外部環境を構成していた。

かく形成された国際アレンジメントは、それが存在すること自身が台湾の中華民国が曖昧な国際的位置づけのまま事実上の独立を維持できる国際空間が存在することをも意味していた。当時はそれがどれほど続くのか不確実であったが、結果的に半世紀にわたって存続しているのである。

一般に「七二年体制」という場合、1972年日中共同声明以後の日台関係の枠組を指すことが多い。これに対して、私は、上記のような、米中の戦略的妥協を基礎とした国際的アレンジメント全体を指して七二年体制としている。これはまた広義の七二年体制と呼んでもよいだろう。こうした観点からすれば日台関係の七二年体制、狭義の七二年体制は、広義の七二年体制の最終的形成に先だって形成され、その補助的であるが重要な一部分を構成してきたということができる。以下、私が七二年体制という時は広義の七二年体制を指すこととする。

 さて、私は2008年の著書で、このように中華民国台湾化を論じ、その外部環境としての七二年体制を論じたのであったが、その時から数えても、すでに十数年の時間がたち、この間米中関係、中台関係を始め、日中、日台の関係にも大きな変化があった。世界的潮流であったグローバリゼーションにも不具合が目立ちはじめ、加えてロシアが始めた戦争を契機として、国際社会の相貌はその変化を加速している。そして何よりも七二年体制の形成からすでに半世紀の時間が経過した。台湾の歴史でいえば日本植民地統治期全体に相当する長さとなっているのである。半世紀にわたる日本植民地統治期を台湾歴史の一つの時代であるとすれば、七二年体制の、中華民国台湾化の半世紀も台湾歴史上の一つの時代を画するものとなりつつある。台湾も日本も、以前と同じ台湾、日本ではいられないことは言うまでもない。

国際的アレンジメントとしての七二年体制も、私の七二年体制論も、再検討すべき時期がすでに到来しているといえるだろう。七二年体制はどう変わったのか、いやそもそも当初の定義に該当する国際アレンジメントが今後も存続し得るのか、こうした疑問も湧いてくる昨今の状況である。そこで、本日の講演では、この七二年体制論の再検討を試みてみたい。再検討のキーワードは「地理」と「歴史」である。「地理」とは台湾の地理的位置、「歴史」とは、台湾の地理上の位置と連動する台湾の歴史、特に19世紀後半以降の台湾をめぐる国際関係史である。

2.台湾は何処にあるか?——諸帝国の周縁とその地政学

 台湾歴史を世界史の中においてみると、「台湾は諸帝国の周縁である」という命題が導かれる[若林2020]。これには、二つの意味がある。一つは、台湾という地域を支配する、あるいはこの地域に強い影響力をもち台湾をその周縁に組み込むようなパワー、いわば「帝国」が、東アジアにおける力の布置の変動とともに「代わり変わる」ことである。「代わる」にわざわざ「変わる」を付け加えるのは、「代わる」毎にこれらの帝国の世界史的性格が異なってくるからである。

二つめは、台湾の地理的位置である。台湾の地理的位置は、①西太平洋列島線の中央に位置する島嶼であるとともに、②中国大陸東方海上の近傍島嶼である、との2点から特色づけることができる。このような地理的位置からいって、歴史上、台湾にとって影響力・支配力を行使する地政学センター(つまり帝国)は中国大陸の帝国のみではなく、太平洋地域にも存在する。つまり台湾は複数の地政学的センターの影響力が重複する地域に属している[Fong2020: 13]

 アメリカの中国研究者A.ワックマンは、国際政治における台湾問題においては「地理はモノを言う(Geography matters)」、すなわち台湾が何であるかとともに台湾が何処にあるかが同様に重要であると指摘している[Wachman2007 : 32]

歴史を振り返れば、19世紀後半以降は特にそうである。台湾はその地理的位置の故に、東アジアにおいて複数の地政学的センター、つまりは関連諸大国の力の角逐が表面化する時期に入ると、これら諸大国のエリートの間に、台湾島の地理的位置の地政学的価値を値踏みする視線が生じる。台湾という島の存在のみなら、その地政学的意義が関連国家エリートの情勢認識の前面に出てくるのである。平和の時期には後景にあってあまり意識されないでいたものが、安保・外交の論議の前面に出てくるようになる、つまり「前景化」する。これを「台湾島の地政学の前景化」と呼んでおこう。二三例を挙げれば、1858年の米ペリー提督が議会に提出した、中国主要港湾に睨みをきかせるため台湾への海軍力配置を推奨する報告、1895年日清戦争講和に際して伊藤博文首相に対して台湾領有を進言する、その懐刀と言われた井上毅の書簡、そして1950年夏のダグラス・マッカーサー日本占領連合国軍最高司令官の「台湾は不沈空母」発言などがその最たるものであろう[若林、2008458-460]

 このような「前景化」が生じる以前の時期には、台湾の国際的な身分は一つの帝国の支配下ないし強い影響下におかれて、ある意味では安定している。これを台湾にとっての「帝国の平和」と呼ぼう[3]。「前景化」が生じることは、東アジアに地政学的緊張が顕在化しつつある、あるいはすでに顕在化していることの表れであり、台湾をめぐる「帝国の平和」が動揺し始めている、あるいはすでに動揺していることを示す。そして、その動揺が克服されないままに東アジアに危機が訪れる。さらに、実際に戦争、内戦、あるいは冷戦体制の構築といったコンティンジェンシーに満ちたプロセスが展開され、東アジアの地政学的緊張に一定の決着を付けられると、そこでまた台湾にとっての新たな「帝国の平和」が始まる。台湾の歴史には、このような、「帝国の平和」、その動揺と「台湾島地政学の前景化」、帝国の交代、新たな「帝国の平和」という歴史の繰り返しが出現している。

 ここで想起されるのは、19501月当時のアメリカ国務長官ディーン・アチソンが行った”defensiveperimeter”戦略の演説である。この”defensive perimeter”の語を日本の冷戦史家は「不後退防衛線」と訳している。この演説は、ソ連の東アジアへの膨張に備えてアメリカはこの防衛線より後退しない戦略を採ると表明したものである。この時の「不後退防衛線」、通称「アチソン・ライン」には、日本列島、沖縄、フィリピンは含まれるものの台湾は含まれていなかった。しかし、冷戦史家J. . ギャディスが指摘しているように、当時アメリカは台湾を、すでに始まっていた東西冷戦における「敵対勢力」に譲り渡すつもりだったわけではなかった。事実、朝鮮戦争勃発と中国軍の朝鮮戦線参戦とともに、この「不後退防衛線」は朝鮮半島の三十八度線と台湾海峡に「西進」し[ギャディス(五味俊樹他訳) 2002139-151]、そして、東アジアにおける東西冷戦体制の深化とともに固定して今日に至っている。この間、米中接近や冷戦体制の解体など様々な曲折が存在したとはいえ、大筋では台湾も日本もこの「不後退防衛線」の「内部」において、今日まで70年以上の平和を享受してきたわけである。

これが西太平洋地域における「アメリカの平和」である。だが、今日その「アメリカの平和」は動揺し始めているかに見える、少なくとももはや以前のように盤石ではない。その主要な背景は言うまでもなく、中国の台頭、すなわち、1970年代末から「改革と開放」の政策が堅持されたものの、中国が権威主義的政治体制のまま経済的にも軍事的にも強大化を遂げ、21世紀に入って以降その対外姿勢も膨張主義化していることであろう[田中 2020]

では、この状況を反映する台湾島の地政学の前景化は何時始まったのか。具体的な史実や文献を十分に提示してそれを論じる力は私にはないが、それがアメリカの対中政策の転換に伴って生じていることは間違いないだろう。だとすれば、それはオバマ政権の第二期には生じており、トランプ政権において国家エリートのコンセンサスとなったと言えるだろう。

これを象徴するのが、前記”defensive perimeter”の語が、アチソン演説の72年後の台北で、アチソンと同じ国務長官職を経験した人物から発せられたことであろう。今年の34日トランプ政権で国務長官を務めたマイク・ポンペオは台北で短い演説を行い、その中で「台湾は抑止を確立する上で重要な防衛パートナーである。台湾は日本、韓国、フィリピンを結ぶ”defensive perimeter”の中央に位置しており、台湾を失うことはアメリカの最重要の国益に対する直接の脅威となる。良いニュースは、中国がもたらす脅威にアメリカが目覚めていることである」[4]と述べている。現職にない人物の発言ではあり[5]、また事態の進行の実際から云えば事後的な確認発言に過ぎないとも言えるが、他ならぬ台北で、72年前に「西進」した「不後退防衛線」に言及しているだけに、21世紀における「台湾島の地政学の前景化」を如実に語る発言と言えるだろう。

3.ひびが入る米中妥協と国際秩序——七二年体制の現在

 以上のように、「地理」と「歴史」の連動する観点から、近代以降の台湾の国際関係史上の位置を捉えた上で、現在の時点からの後智恵も含めて再検討すると、七二年体制の現在について、どのようなことが言えるだろうか。

 第一に指摘したいのは、1972(ニクソン訪中)から1982年(「八一七コミュニケ」発出)にかけて形成された七二年体制は、結果的にみてアメリカ帝国システムにおける東アジアの戦略的周縁から台湾をその外に放り出したわけではなかった、という点である。

「アチソン・ライン」の「西進」により、1950年代以降、台湾はアメリカから大量の経済・軍事援助を受け、東西冷戦における「共産中国」封じ込めの前哨基地の役割を割り振られていた。言うまでもなく、そのような台湾にとっては、1970年代初頭の国連からの追放や「米中接近」は大きな政治外交的打撃となった。軍事面でも「上海コミュニケ」に基づきアメリカが台湾に駐屯する部隊と施設とを引き上げていき、最終的に米華相互防衛援助条約が廃棄に至ったことは、米軍の直接・具体的プレゼンスが台湾から消滅したという点に限っていえば、「アチソン・ライン」が現実となった、つまり「不後退防衛線」が台湾島の東側に後退したようにも見える。

 しかし、米軍の台湾撤収には、戦闘機生産などの自主防衛力強化態勢の整備が並行していたのであり、1979年台湾関係法以降の台湾への防衛的兵器供給の実践には、この事が伏線となっていたのであった。加えて、アメリカは、前記「八一七コミュニュケ」に見るように、中国との対台湾武器売却問題協議においても、その終了期限を切ることを拒否したのであった。アメリカは対ソ戦略利益のために、台湾の中華民国の政治外交的利益を大きく犠牲にしたのであるが、結局のところ台湾をその帝国システムにおける戦略的周縁から放り出したわけではなかった。

言い換えれば、このことは、アメリカは、アメリカにとっての台湾島の地政学的価値を、結局のところ中国に譲りわたしはしなかったことを意味するだろう。アメリカはその「防衛性武器」の「台湾人民」への売却により引き続き台湾の安全保障に関与することを通じて、台湾の戦略的価値をアメリカの帝国システム内に留保し続けてきたのである。その価値についての認識は1980年代、90年代、さらには2000年代と潜在的なものであり続けたが、2010年代に入り、それは国家エリートのコンセンサスとして急速に前景化するに至ったと言える。

 第二に、しかし、その一方で、アメリカは、中華人民共和国の台湾に対する主権保有について最終的言質は与えなかったものの、1979年以降平和的方法による対台湾影響力行使、つまり「祖国の平和統一」政策による対台湾アプローチ、を開始することを容認した。これは、対米接近以後冷戦後の時期を通じて、アメリカの東アジアにおける同盟網に挑戦せずそれとの消極的共存を選択し続けたという、ポスト冷戦期の中国の対米姿勢[佐橋、20208]と相応するものであったが、米中それぞれの影響力メカニズムがそもそも潜在的には重複する地域としての台湾に、中国がその影響力メカニズム(「中国因素」)の現実的構築への手がかりをもつことを容認するものでもあった。

当時の状況としては、アメリカはそれを容認しても問題なかった。この時点で米中のパワー(軍事力、経済力、技術力など)の差は歴然としており、また、時のアメリカの対中政策は中国との貿易・投資などの経済的関係の拡大・深化とともに「中国が政治改革を進め、市場化改革を行い、既存の国際秩序を受け入れその中で貢献していく」との自由主義的な「三つの期待」を前提にしたものであった[佐橋 202117]からである。この容認は、アメリカ側の自由主義的期待が未だ幻滅に至らず、その「三つの期待」と中国側の「韜光養晦」のスタンス、すなわちアメリカとの正面衝突を避けてその力を利用して実力を蓄えるという基本方針、との「同床異夢」のカップリングが継続し得る間は続いたのだと言うことができる。

 2010年代以降、このカップリングにはひび割れが目立つようになり、カップリングを担保していた米中の相互信頼も急速に減退するに至り、七二年体制には、新しいコンテキストが加わることとなったのである。一つは、国際情勢全体にかかわる変化である。それは言うまでもなく、オバマ政権第二期の「リバランス」を経てトランプ政権期に明確となった米中対立の拡大と激化であり、それがもたらす国際秩序の緊張である。

二つ目は、中国習近平政権の台湾政策基調の変化である。共産党政権はかつてはその台湾政策の基調の中に「台湾人民にも期待を寄せる」(「也寄希望於台灣人民」)という常套句にうかがわれるような台湾内事情の配慮を含めていたが、習近平政権以降、その経済力、軍事力の伸張とともに、そうした配慮を行わない、力を前面に出した「実力主義」に転じたようであり、台湾海峡における軍事力誇示の活動も増加している。

新しいコンテキストの三つ目は、「中国要因」、つまり中国の影響力メカニズムが実際に台湾内政治に登場したことである。それは、馬英九政権第二期の2014年の「ヒマワリ運動」と蔡英文政権第一期の2018年秋の「韓國瑜現象」と、異なる方向性をもった強力なポピュリズムの波に台湾の政治が襲われたことに如実に現れている。

総じて、七二年体制という国際アレンジメントにかかる負荷は急速に重くなっているのである。これもまた「台湾島地政学の前景化」の出現に見合った政治現象であるといえるだろう。

4.台湾とは何であるか?——中華民国台湾化の現在

 七二年体制の現在について指摘すべき第三のポイントは、七二年体制と中華民国台湾化の関連であろう。七二年体制は、中華民国台湾化という政治構造変動の外部環境であるが、それは中華民国台湾化に対して、促進と抑制の二面性を持ったといえる。

 促進の側面については、次の2点が指摘できる。第一に、1970年代初頭において台湾の中華民国が被った政治外交的打撃は、台湾の内部において国民党一党支配の権威主義体制の威信への打撃となり、権威主義体制に反対する政治勢力に新たな空間を与えた。国民党は1950年代より地方公職選挙を挙行してその台湾社会からの一定の支持調達に成功してきたが、70年代のその威信への外部からの打撃を受け止めるために、国政レベルでも国会部分改選の道を開かざるを得なかった。そこに権威主義体制に挑戦する政治的・イデオロギー的空間が開かれて、オポジションが成長していった。

第二に、七二年体制におけるアメリカ側のアレンジメントが、間接的に民主化の促進のバネになった。台湾問題の「平和解決」を担保するため「台湾人民」に防衛性の武器を提供するというのが米中国交に際して米議会が制定した「台湾関係法」の中核的内容であるが、その台湾関係法には、台湾人民の人権保障をアメリカの関心事項であると規定する条項が同時に存在していた。当時の総統にして国民党主席の蒋経国が中国の「平和統一」の呼びかけに応じないとすれば、アメリカが外交的承認を取り消した後でも台湾関係法に表明されているアメリカの安保資源供給に依存しなければならない。国民党政権にとっては逆説的であるが、こうした状況の下では、何らかの形で政治的自由化と民主化を進めることが、安全保障政策の意義を帯びることとなったと言えよう。このことは、蒋経国をはじめとする国民党のエリートが、下からのオポジションの運動の強い圧力とともに、民主化を受け容れる一つの背景となったと言えるのではないか。

他方、七二年体制の中華民国台湾化に対する抑制というのは、台湾海峡の平和維持の観点から、ワシントンが、台湾における政治改革が民主化を超えて台湾の国家性の強化に進むことを好まないことである。つまり、中華民国が中国国家であることを自己否定して台湾国家であることを明確にしていこうとする試みは抑制されるのである。例えば、憲法修正の動きについてみると、李登輝の「二国論」改憲の試みに対して、ついで陳水扁の「公投制憲」の試みに対しては、北京の反発はもちろんのこと、ワシントンからも強いチェックが入ったのであった。さらに2016年民進党が蔡英文を立てて政権奪回をはかる際には「現行の中華民国憲法体制に依拠して」施政を行うとの「現状維持」のスタンスを懸命にワシントンに説明したことは未だ記憶に新しいところであろう。

 まとめれば、七二年体制という外部環境の下で進展した中華民国台湾化という政治構造変動は、戦後の中国内戦と東西冷戦が結合して台湾に形成された特異な中華民国という国家を、「台湾サイズ」の一つの国民国家に変えていくというプロセスを大きく進展させたはしたものの、まだそのプロセスは依然完結できない状況にある、と言えるだろう。

ただその一方で、「九二コンセンサス」に基づく中国との関係拡大が急速に進行した馬英九政権の8年間においても、ナショナル・アイデンティティとしての台湾人意識の増大傾向は一段と強まった。しかし、上述のように、国家の法理において「中国性」を振り切ることは躊躇されたままである。例えば、民主化を支える中華民国憲法の「増修条文」の前文には依然として「国家統一前の必要に応じて(この増修条文を定める)」という中国国家としての法理を含意した文言が書き込まれたままであり、今後民進党政権が続いたとしてもこの点が修正される可能性は小さいと思われる。このことは、アメリカがバイデン政権になって中国との対立・競争関係の時代に入ったと宣言しても依然として「一つの中国」政策の看板は卸さないことにも相呼応している。

それ故に、現今の台湾の中華民国は、七二年体制を外部環境として進展した民主化と台湾化によりかつて存在した国家と国民との乖離を解消して事実上の台湾国民国家としての実質を強めつつあるものの、依然として、国際的に承認された名前を未だ持たない、その主権に重大な挑戦を受けている特異な国民国家であり続けるのであろうと思われる。

5.結び

 ここで、話を七二年体制のほうに戻せば、七二年体制は、その基盤となる米中の戦略的妥協とそれを担保していた相互信頼が崩れつつある中で、台湾の民意における「一つの中国」への支持も大幅に減退し、さらに習近平の対香港強硬政策によって、中国共産党の「祖国の平和統一政策」の具現化であった「一国家二制度」も破壊され、一面「名存實亡」の様相を呈しつつある。

しかし、だからといって、台湾海峡秩序の半世紀にわたってそれなりに有効であった国際アレンジメントとしての七二年体制の寿命がすでに尽きていると言い切ってしまうことも難しい。その終わりの始まりが本当に開始されているのかどうか、そもそも七二年体制に終わり来るとして、それが終わるということはどのような状況をもたらすのか、その時の東アジアは、世界の秩序は、どのような様相を呈しているのか、その時ウクライナ戦争がどの様な影響をもたらしているのか、これらを見通すことはさらに困難である。私は1949年生まれであるので、1950年のアチソン・ライン「西進」後の「不後退防衛線」の下での東アジアの力の布置の構図に、感覚的にも慣れきってしまっている。それ故にこの力の布置の構図と異なる状況を想像するのがいっそう困難であるのかもしれない。このシンポジウムにおいて若い専門家の皆さんの新しい発想から学びたいと思っている。

とはいえ、最後に、再び「地理」と「歴史」の観点を想起すれば、現今の状況について一点はっきりしていることがある。国際政治問題としての台湾問題においては、ワックマンの指摘の通り、確かに「地理はモノを云う」のであり、「台湾が何処にあるか」が重要となるのであるが、「台湾が何であるか」が重要でないというわけではない。両者の国際政治における比重は歴史とともに変化しているのではないか。台湾の国際的帰属があっさり変えてられてしまった19世紀末や20世紀中葉の西太平洋地域の危機においては、まさに「地理はモノを云った」のであって、台湾は東アジアにおけるパワーの角逐の勝利者のいわば戦利品となり、あるいはその地理的位置故に西太平洋の地政学センターの戦略的アウトポストとして位置づけられた。「台湾が何であるか」の問題は後景に退いていた。

しかし、七二年体制下の半世紀は、この状況を変えたのではないだろうか。私の見解では、中華民国台湾化は、歴史上初めてこの地域に「台湾サイズ」の明確な地域的政治主体性の台頭をもたらしている。台湾地域を統合し民主的意志決定のできる政治体制、活発な発信力を持つ市民社会、そしてアメリカの支援を受ける軍隊、この三点セットは、過去の台湾危機には存在しなかったものである。このことが「歴史の中の七二年体制」を振り返って見いだせる最大の意義であると考える。

参考文献

小笠原2017 「『一つの中国原則』『一つの中国政策』」、小笠原ホームページ[http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/analysis/one_china_principle_and_policy.html2022.3.18確認)]

ギャディス(五味俊樹他訳) 2002 『ロング・ピース 冷戦史の証言:「核・緊張・平和」』、芦書房

佐橋亮 2020 「東アジア秩序はいかに形成されてきたのか」、同編『冷戦後の東アジア秩序——秩序形成をめぐる各国の構想』、勁草書房、1-18

佐橋亮 2021 『米中対立 アメリカの戦略転換と分断される世界』、中央公論新社

田中明彦 2020 「激動の世界を読む──大統領選後の米中関係 競争・対立の構造は不変」『毎日新聞』2020.11.12

森聡 2020 「アメリカの対中アプローチはどこに向かうのか」 川島真・森聡編『アフターコロナ時代の米中関係と世界秩序』 東京大学出版会47-73

若林正丈 2008 『台湾の政治 中華民国台湾化の戦後史』東京大学出版会

若林正丈 2020 「『「台湾という来歴」を求めて——方法的『帝国』主義試論」、若林正丈・家永真幸編『台湾研究入門』東京大学出版会、345-365

若林正丈2021 「補論 『中華民国在台湾』から『中華民国台湾』へ」、同『増補新装版 台湾の政治 中華民国台湾化の政治史』東京大学出版会、415-460

Fong, Brian C.H. 2020 “Why Compare China’s Influence: Going beyondthe Existing Literature,” in Brian C.H.Fong, Jieh-min Wu and Andrew J. Nathaneds., China’s Influence and theCenter-periphery Tug of War in Hong Kong, Taiwan and Indo-Pacific, NewYork: Routledge, pp.4-23

Wachman, Alan A. 2007 Why Taiwan?: Geostrategic Rationals forChina’s Territorial Integrity, Stanford: Stanford University Press



[1] 中文版:薛化元審訂、洪郁如・陳培豊等譯『戰後台灣政治史中華民國台灣化的歷程』(台北:臺大出版中心,2014)。2021年「補論 『中華民国在台湾』から『中華民国台湾』へ」を加えて、「増補新装版」を刊行。

[2] 中国の「一つの中国」原則とアメリカの「一つの中国」政策の違いについては、小笠原[2017]参照。

[3] この「平和」は台湾住民にとって社会が平和であったということを必ずしも意味するわけではない。

[4] 英文原文は次の通り:Taiwanis a crucial partner in defense, and most importantly in establishingdeterrence. It is situated right in the middle of the defensive perimeterfrom Japan, Korea, Philippine to South China Sea. Losing Taiwan is of directperil to the vital national interest of the U.S. Good news is now America awaketo the threat China poses.(私がYou Tubeの録音から聞き取ったもの)

[5] 現バイデン政権の国防次官補イーライ・ラトナーは202112月の上院での証言は、ポンペオ演説よりは明確に台湾を位置づけている:”Taiwan is located at a critical node within the firstisland chain, anchoring a network of U.S. allies and partners—stretching fromthe Japanese archipelago down to the Philippines and into the South ChinaSea—that is critical to the region’s security and critical to the defense ofvital U.S. interests in the Indo-Pacific” https://www.foreign.senate.gov/imo/media/doc/120821_Ratner_Testimony1.pdf (この点は佐橋亮氏のご教示による。記して謝意を表する)





by rlzz | 2022-04-23 09:30

台湾研究者若林正丈のブログです。台湾研究についてのアイデアや思いつきを、あのなつかしい「自由帳」の雰囲気を励みにして綴っていきたいと思います。


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